子ども均質化する教員は要らない

公立の小学校では、一クラスに35人前後の子どもがいる。
当たり前だが、子どもは一人ひとり違う。

得意なことも、苦手なことも違う
好き嫌いも違うし、大切に思うことも違う。

多様性という言葉が浸透した現代社会において
このような個々の違いは、互いに認め合って当然である。

しかし学校の教育活動の中に多様性を認める文化はまだない。
できない子は認めないし、やる気がないことも認めない。

体育の授業を見ているとよく分かる。
例えば跳び箱の授業であれば
先生は、できない子につきっきりになる。
なぜなら、できない子をできるようにしたいと思っている、
もしくは、できない子をできるようにしなければならないと思っているからだ。

こんな話がある。
ある教員は、跳び箱を跳べない子どものために
毎日休み時間練習に付き合い、何週間もかかってようやく
その子は跳び箱を跳べるようになったという。
その時、子どもは泣いて喜び、こう言った
「これで休み時間に練習しなくてよくなる」と。

できるようになって欲しかったのは先生だけだったということだ。

なぜ、できない子をできるようにしたいのか?
その思考が問題である。

大抵は、できない子を放置していると、先生としての評価が下がるとか
できない子をできるようにすることが教員の役目だとか
思っているのだろうが、結局その思考の中に子どもはいない。

できない子とやる気の低い子は違う。
しかし、大抵の場合はつながっている。
できない子、やる気の低い子はそのまま受け入れても良いのではないだろうか。

研究授業などで中心となる課題は、未だに「関心・意欲を高めて、主体的に学習すること」である。

外的要因によって高められる関心や意欲に何の意味があるのか?
先程の、跳び箱を跳んで泣いて喜んだ子どもの努力や結果にどれほどの価値があるのか?
よく考えていただきたい。

子どもを均質化する必要性は、現代社会において重要ではなくなってきているし、今後は尚更であろう。
これからの子どもは、自分の興味のあることに思う存分取り組み、関心のない事を無理して頭に詰め込む必要はない。

では漢字は書けなくてもいいのですか?とか
かけ算はできないままでもいいのですか?とか
ではゲームばっかりやっててもいいのすか?とか
そういう発想しかできない人は放っておいて

早く一人ひとりが思い通りに、思う存分に成長できる教育を
実現したいものである。

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