子どもの味方になる保護者をあざ笑う教員は要らない

最近は「ウチの子に限って!」というフレーズ自体は聞かなくなったが、保護者が自分の子の非を上手く受け止められないという事例は今でもたくさんある。

そのような保護者は、問題の責任を学校や先生、他の子どもたちに転嫁してしまう。
もちろんそれらに全く責任がないということではない。
しかし一般的には、まず問題とされている自分の子やその保護者である自分の責任と向き合うべきとされている。

だから、こんなことがあると
やれ『モンペだ』とか
やれ『まるでカスハラだ』とか言って
自分たちは被害者であると叫ぶ。

そして、教員たちは、自分や子に向き合わず、他に責任を転嫁する保護者たちを『非常識である』と、お茶を飲みながら共にあざ笑い、保護者対応のストレスによってできた心の傷を舐め合っている。

しかし、この教員らの受け止め方にもいささか問題があると感じる。

人の行動には必ず理由がある。
だから、『非常識』と思われる保護者の行動にも理由があるはずだ。

それを全く考えずに、表面に現れている非常識さだけを取り上げてあざ笑うのは、それもまた教員としては非常識ではないだろうか。

保護者になったことがあるかないかには関係なく、教員らはもっと保護者の心理や行動を理解し、寄り添うことこそが常識でなければならない。

保護者も保護者として子どもと一緒に成長している。小学生の保護者であればまだ保護者としては入り口も入り口だ。
保護者も様々な不安を抱え、日々子育てのプレッシャーと闘っている。

核家族化や地域社会の希薄化が進み切った日本では、自分の育て方によって、1人の子の人生を左右させてしまうかもしれないというプレッシャーに保護者のみで立ち向かわなければならない。
もしそれが片親だったり、夫婦の片方に負担が傾いているならば、そのプレッシャーは半端なものではないだろう。

そんなプレッシャーの中、
自分の子が他の子にケガをさせてしまったり、
いじめの加害者になってしまったり、
学校で授業妨害となる行動をしてしまったり、
授業に全くついていけなかったり、

このようなことを全ての保護者がしっかりと受け止めきれるのは常識なのだろうか。

私はそうは思わない。

保護者の中には、「自分の育て方が間違っていたのだろうか」と自分を責め、大きなショックを受ける人もいるだろう。
そのショックの大きさに耐えられず、「そんなはずはない、自分の育て方は間違ってない」と考える人もいるはずだ。

それは人間の弱さの表れかもしれない。
だからこそ教員が手を差し伸べ、寄り添い、協力してその問題に共に対処すべきなのではないだろうか。

人の表面だけを見て、その裏にある心を推し量れない教員は、今一度保護者というものの捉え方を考え直した方が良い。

保護者も教員も子どもたちに対する思いは同じなはずなのだから。

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