子どもを幸せにしなければというプレッシャーは要らない

教員を志すような人間は、基本的に子どもが好きな人間であることが多い。
だから、自分の目の前にいる子どもたちを幸せにしなければ、笑顔にしなければ、という気持ちが強い者が多いはずだ。

その気持ちが強ければ強い程、子どもたちへの支援や保護する姿勢も強いと感じる。

例えば、学芸会が行われるのであれば
演目を決め、台本を作り、オーディションを実施し、衣装を決め、音楽を決め、大道具を作り、小道具を作らせ、と教員は学芸会で子どもたちが輝けるように支援するだろう。

勤務時間外の時間や家に帰ってからの時間まで費やして考え、計画している者を少なくないはずだ。

そして、教員の思考は徐々に『これで、上手く行くだろうか、子どもたちは笑顔になってくれるだろうか』という不安が大きくなる。

子どもたちを思う気持ちがプレッシャーとなって跳ね返って来てしまう。

このプレッシャーにとらわれてしまうと、今度はそのプレッシャーを払拭しようと、更に時間と労力を費やし、『もっと、もっと』と支援や保護する姿勢が強まってしまう。

「教員の仕事は、きりがないから」などと昔は先輩教員からよく言われたものだが、このプレッシャーが正に『きりのない』状況を生み出している。

しかし、この学芸会の例で列挙した支援は本当に必要だろうか?
演目は教員が決めてよいのか?
台本は教員が作ってしまって良いのか?
オーディションで合否を決めるのは教員で良いのか?
どんな衣装を来て、どんな道具を持つかを教員が決めてよいのか?

これらの支援は、子どもたちが考える機会を奪っているともいえないだろうか?

そんなこと言ったって時間的に無理だとか、
低学年には無理だとか言うだろう。

では逆にいつならできるのだろうか。
中学生、高校生、大学生、社会人、
ただ歳を取って、肩書きが変わったらできるのだろうか?

そんなはずはない、大切なのは経験だからだ。

失敗しようが、下手だろうが、トラブルになろうが、見るに耐えないものになろうが、自分たちで作り上げたという経験が力となるはずである。

そう考えると、これらの支援は教員の自己満足である部分を否定することはできない。

『子どもたちを幸せに、子どもたちを笑顔に』というプレッシャーは、いつしか自分自身を守り、自分を満足させるための行動に変わってしまっていることが多いと感じる。

そんな時は、子どもたちにそのプレッシャーを分ければ良いのだ。
子どもにやらせれば良いのだ。

教員らも、今の生活や幸せは誰かに与えられたものではないばす。家族や友人の助けがあったにせよ、少なからず自分で動いた結果なはずだ。

子どもも同じだ。
子どもは自分の力で幸せになるし、自分の力で笑顔になる。
最初から誰かに幸せにしてもらおうなどとは思ってはいないし、寧ろ、そう思わせてはならない。

子どもたちが自分の力で幸せなること、笑顔になることが一番大切なのである。

教員の感じているプレッシャーは、無意味なのだ。

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