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音楽というのは、突き詰めてしまえばきっと愛だ

B'zがサブスクでの音楽配信の解禁に踏み切った。

…のを私は、ジョイマンの高木さんのツイートで知った。

いやマジ失禁モノですよ。

「へっ、えっ、マジ?」と驚いていたら、隣りで夫が「あーそうらしいねえ」と呟いた。ちょっと、知ってたんだったら早く言ってよ!!!と思ったけれど、この人が大切なことを伝える癖の無い人であることをすぐに思い出し、とりあえずジョイマンに感謝するばかりだった。

私の青春時代はB'zと共にあった。

とはいえ、大人になる過程で持っていたCDはすべて手放してしまったのだ。

今でも中古屋さんに行けば殆どのCDは手に入る。けれど、そもそも夫のパソコンとカーオーディオ以外、我が家にはCDを再生する機械も無い。私のノパソにはCDを取り込む機能が付いていないのだ。

そうなってくるともう、サブスク様様様様すぎるのだ(語彙力放棄)。

早速、一番聴きたかったアルバムを再生した。

高校の時、小樽駅前の玉光堂というCDショップで予約して買ったアルバムだ。個人的に神曲!と思える楽曲が詰まっていて、何度聴いたかわからない。

歌詞をそらで歌える自分に、つい笑ってしまった。そんな自分が愛おしく感じられた。

十代なんてとっくに終わってしまって、ちょっとやそっとじゃあ傷つきもしないし、なんというか自己防衛なんだけれども、心は日々鈍感になってゆく。十代の頃はあんなにも毎日、心から血を垂れ流しながら生きていたというのに。

メンタルが強くなってゆくのはいいことなのだとずっと思っていた。

けれども、メンタルが強くなればなるほど、純粋でいつも一生懸命だった自分というものは、まるで虫に食われるみたいに失われてゆく。

それが、ちょっとだけ寂しかった。

処女だった自分を羨ましく感じる、みたいな感覚に似ている。性欲なんちゅうものに囚われないで、好きな人ともしもキスなんてできちゃったらば、それだけで一生幸せでいられる—くらいに清らかだった自分に戻れたならば、きっともっと心豊かに暮らせる気がする。

ただ、B'zの曲の歌詞を今でも覚えていて歌って嬉しくなっちゃう自分をちゃんと見つけられて、私は「ああまだ私は私のままなんだ、」と思うことができて、なんだかほっとした。

ときどき私は「アーティストは神様説」を唱えるけれど、

まあ間違いなくB'zのふたりも神様だろう、なんて言ってみる。

特にさあ、稲葉さんはさあ…ずるいのよ!!!

あの完璧な彫像みたいな人が女々しい歌詞を書くんだぜ、あの人であんな女々しくなっちゃうってどういうこったい!…と言いたくなる。

完璧な人が完璧な歌詞を書いたって、そりゃあ完璧でしょうよ。

でも稲葉さんはなんかちょっとカッコ悪いことを書いたりして、そのアンバランスさに「ずるいよ!!!」とキュンとさせられる、気がする。

そういうところもどうにも神様だなあと思ってしまう(また語彙力放棄)。

売れ線狙いで狙った歌詞を書く一般人にはとてもじゃないけどたどり着けない、そんな神様のポジションだ。

私はそういう神様に見守られて少女期を過ごし、大人になった。

神様の存在を遠くに追いやりながらも、世間にまみれて薄汚れていって、かさぶたが治ってはまたその上に傷を負い、そうして皮膚はどんどん固くなってゆく。

些細なことでは怒らない、血を流さない、そういう大人になってしまった少女は、ときどきむしょうに寂しくなるのだ。

ほんの束の間でいい、ただ愛されるだけの夢が見たい、と。

だから神様が「そろそろサブスクを、」と与えてくれたんだろーね、と、自分に都合よく解釈して、私はB'zの音楽に包まれる。

音楽というものは、突き詰めてしまえばきっと愛だ。

愛を与えてくれるアーティストだけが、世の中に残ってゆくに違いない。

私もそうなりたいんだけど、今だけはもう少しだけ、与えられる側の愛に浸らせてね、神様。


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