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「どこで誰と何をするのか」

「どこで誰と何をするのか」は、年齢を重ねれば重ねるほど重要なことになってくることを痛感する日々。人の人生を左右するものであり…と言ってしまうと「他責的だ」「理屈っぽい」だの言われてしまうことは百も承知だけれど、「人は人と影響し合って生きている」のだから「どこで誰と何をするのか」によって、人生を左右させるだけのものになってくるとしか思えない。だから、人は「選別」をし「自分の意思を強いる」ようになるのではないかとも思う。

年齢を重ねれば重ねるほど「環境」は固定化されていく。「習慣」にしても同じだろう。だからこそ「どこで誰と何をするのか」を重視するようになる。その結果として満足のいく「環境」や「習慣」が維持できるかが大事なことになっていく。けれど、それを維持できなくなっていくことがわかってくると「新しいもの」を受け入れなければならないことに気が付く。そして、その「新しいもの」が自分達の「環境」や「習慣」に適したものなのかどうかを「選別」するようになる。転職面接においては「能力面」も重視されるけれど、結局はこうした点が主たるものとなっているのではないかと面接を受け続けて感じる今日この頃。

年齢を重ねれば重ねるほど「新しいもの」を受け入れていくことなんて難しくなっていく。だから「どこで誰と何をするのか」が重視されていくのだと思う。それはどんな「環境」においても言えることかもしれないけれど。「新しいもの」を受け入れることができない人達は、その分、今自分がいる「環境」内において「自分の意思を強いる」ようになるのだろう。「自分自身の」環境と習慣を維持していく為に。その環境内にいる自分以外の人達の意思なんて考えることもなく。「自分の事だけ」を考えて「自分の意思を強いる」ようになる。それは人としては自然なことなんだとは思うけれど、そうしたものに合わせて「生きていくこと」は、双方の為にはならないと思う。

だからこそ、どこで誰と何をするのか」は、年齢を重ねれば重ねるほど重要なことになってくることを痛感し、人の人生を左右するものであると思う次第。

「自分の意思を強いる」人がいる環境から浮いてしまった人間はどうすればいいのだろうか。逃げすにしても新たな環境が見つからなければ逃げ出すことはできない。逃げ出すことができなければその場に滞在し続けなければならず、「その意思を聞いてあげなければならない」ことになる。それが「お互いの為にならない」ことだと思うのだけれど、それでもそうせざるを得ない立場に置かれている人間がいる。それがどれだけその人の人生にとってマイナスなものになっていることか。そんなことは「自分の意思を強いる」人にはわからないだろう。

どんな環境においても立派な人生を、人が「当たり前」とされている人生を歩んでいる人達がたくさんいることはよくわかっている。100%満足のいく人生なんてものも得られるはずがないということもよくわかっている。「努力はしないよりもした方がいい」ものであり「いやなら抜け出せ」と思うだけだ。…「自分の意思を強いる」人に足を引っ張られ続け、その対応に終始してきてしまった感が否めない私の人生っていったいなんだったのだろうと思う次第。そして、それを長年に渡って続けてきてしまったことへの自分自身への反省と後悔が日に日に増していき、辛さや何とも言えない虚無感を感じる日々からの卒業を果たしたいと思う、5月、月末、月曜日の朝。

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