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在野研究は金がかかる!―謎の男・平澤哲雄の年譜の作成を終えて

1. はじめに

 今回の記事は、ここ1年くらいの私の在野研究(在野研究者)に関する考えの変化、昨年末に投稿した以下の記事を作成した際の感想を述べていきたい。

いつものように調べたことを投稿しているものではないので結構雰囲気が違うと思う。それでも読んでくださる方はお付き合いいただけると幸いである。

2. 在野研究とは何か?

 そもそも私のnoteでの活動=在野研究としてしまっていいのだろうか?という疑問が出てくると思う。この疑問に対して、まずは「在野研究(在野研究者)」とは何だろうか?ということから考えてみたい。

 ウェブの一部界隈ではここ1, 2年話題になっている(注1)ので、私が説明するまでもないかもしれないが、簡単に言うと、在野研究とは、大学などの研究機関に所属せずに研究を行うことだ。研究機関に所属していない研究者と考えてもよいと思う。しかしながら、在野研究ということばを用いる際には、どこが「在野」で何を「研究」に含めるか?という難しい議論が付いてまわる場合がある。狭い意味での「在野研究」は、私たちが通常「研究」ということばから想像するような「研究機関には所属していないが、研究成果を学術雑誌や専門誌に論文を投稿すること」になるだろう。

 この定義に基づくと、私のnoteでの活動は「在野研究」ではない。しかしながら、『在野研究ビギナーズ―勝手にはじめる研究生活』荒木優太編(明石書店, 2019年)では、「在野研究」をもっと広い意味で考えることも提案されている。山本貴光・吉川浩満の「新たな方法序説へ向けて」を参考にして、「在野研究」を以下のように分類してみたい。

狭い意味の在野研究・・・研究・教育機関に所属していないだけで、制度化された学問世界に参加すること。

広い意味の在野研究・・・物事を深く考えたり、詳しく調べたりして、真理、理論、事実などを明らかにすること。

潜在的な研究・・・広い意味での在野研究以外に当人の自覚や自認とは関係なく実質的・潜在的に行われる研究。(例:ジャーナリストが見失われた資料を発掘する、埋もれて不明になっていた歴史的事実に光を当てて記述する、など)

上記のように在野研究を多様なものであると考えると、私のnoteでの活動は広い意味での在野研究か、潜在的な研究に分類されるだろう。よって、ここでは私の活動を「在野研究」と定義したい。

 余談だが、在野研究と同じような意味で「独立研究(独立研究者)」ということばもあるようだが、私は(広い意味での)在野研究の方に良い印象を持っている。印象の問題でしかないが、独立≒ひとりでやっているという狭い印象を受けるが、「在野」ということばからは(いい意味でも悪い意味でも)広がりがあるような印象を受ける。上述したように、制度や組織に関係なく行われる以上、多様なものであるはずなので私は在野研究と言いたい。

3. 在野研究は気軽にできるものなのか?

 上に紹介した『在野研究ビギナーズ』を2年前に読んだ際には、私は在野研究の意味を拡張することでいい意味でハードルが下がり、私を含めて多くの人ができるのではないかと考えていた。実際、私も特別に強調はしていないがこの本を読み終わった後から、私のやっていることは広い意味で在野研究になるのではないかと考え始めた。当時相当啓発されたらしく、この本をテーマに生放送までした記憶がある。(アーカイブをYouTubeで閲覧できるようにした。)

この放送を部分的に聴きなおしてみると、在野研究というものを堅苦しく捉えないでみんなでやろうぜ!というように語っていた。

 この放送をしたのは約2年前だが、あらためて感じたのは、忙しさと在野研究の両立という問題に関して2年前の私は楽観すぎじゃね?確かにこの当時仕事(以下労働と記載)はあまり忙しくなかったが、それにしても呑気だなあと思ってしまう。この部分は現在では気軽にでもできるものではないと真逆に考えている。特に昨年の後半から労働が忙しくなり、帰宅時間(在宅の場合は仕事を終える時間)は平均して21~22時くらいになったため、とても在野研究的な活動と両立できるような状態ではなくなった。実際、この時間帯からできることは限られるだけでなく、そもそもやる気にならない。私の場合、学術書、論文を読むのでなく動画を観たり、早寝したりしている。かと言って休日やるかと言われると、私の場合は平日の疲れを引きずって(言い訳にして)ぼーっとしていることが多くなった。要するに、忙しすぎて在野研究どころではない!

 上記に述べた私の生活はおそらく私だけではなく、易きに流れやすい人間の必然性があるため多くの人に共通すると思う。深夜に帰ってきて、学術書を読むより、そりゃあ睡眠など楽な方を選ぶだろう。そのため、最近ではみんなでやろうぜ!とは簡単には言えない。私自身労働の忙しさと在野研究の両立ができておらず、非常に難しい問題であると考えなおしたからだ。もっとも、私の今年の課題のひとつはその両立を目指すところにあるのだが。

4. 当たり前だけどお金の問題

 それに加えて言うまでもないかもしれないが、在野研究にも金がかかる。イメージができない方もいらっしゃるかもしれないので、参考になるか不明だが私の実例をあげてみたい。

 私は冒頭で紹介した記事で投稿したように、謎の男・平澤哲雄の年譜を作成したが、その過程でそれなりの費用がかかった。特に、料金がかかったのは新聞記事の調査だ。本来だと図書館に行って調査すべきであるが、昨年からの混乱で外出するのもはばかられたため、「ヨミダスパーソナル」という『読売新聞』のデータベースを契約して自宅で調査することにした。あまり知られていないかもしれないが、このデータベースは記事の見出を表示するのに1件ごとに4円、記事を閲覧するのに1件500円かかる。記事は課金するまで読めないので、見出で判断するしかない。そのため、知りたい情報が含まれていない「ハズレ記事」を引くこともしばしば。適切な言い方ではないかもしれないが、ソシャゲのガチャに近い感覚がした。課金は昨年の12月に集中したため、料金を確認してみたら約15,000円課金していた。この課金もあってか、冒頭に紹介したような年譜が完成したが、金がかかるということを実感した。

 他にも平澤の年譜の作成には国会図書館にない名簿の購入、国会図書館で閲覧した平澤の論文のコピー代とその郵送代などがかかっている。詳細は計算していないが、だいたいこれらで5,000円くらいかかったのではないだろうか。合計すると、平澤の年譜の作成には約2万円がかかっている。これを高いと考えるか、安いと考えるかは、この記事を読まれた方々の判断にまかせるが、いずれにしても私がここで言いたいのは在野研究をするには金がかかるということだ。もっとも国会図書館をもっと活用することで、費用を抑えることもできたであろうが、現状を考慮すると地方に住んでいる私には厳しかったのでやむを得なかったと思っている。

 在野研究も内容によるかと思うが、以上に紹介した私のささやかな一例のように少なからず資金を投入する必要がある。この記事を読んでいる方々の中には、2万円あったら他にできることがあるなと思われる方もいるであろうが、私はそれが在野研究のハードルの高さになっていると思っている。もっとも何かに取り組む際には、金がかかるのは仕方がないことだろう。しかしながら、資金を投入するにあたって、在野研究の優先順位を高くするかと言われると、多くの人にとって難しいと思われる。

5. 身もふたもないむすび

 以上の経験から、在野研究にはある程度の時間や金が必要であり、私が思っていた以上にハードルの高いものであったとここ1年で在野研究に対する考えが変わった。

 なぜ私は在野研究に取り組んでいるのだろうか?あらためて考えてみると、他の人が調べていないよく分からないことを調べたいという欲望が強いようだ。最近では、著名人の周辺にいて名前だけ知られているが、詳細はほとんど知られていない人物を調べることもしている。

 在野研究に関して、会社の人に話すと冗談だと思うが晴耕雨読の生活をすればよいのにと言われる。私はこのようなことを言われる度に、そんなユートピア的な生活をすすめるなら金を出してくださいよと思っている。言うまでもなく現在ではそんな理想的な生活はごく少数の例外を除いてなく、労働で日銭を稼ぎながら読書や在野研究を行うしかない。残念ながら現実は非情である。したがって、労働の多忙さと読書、在野研究的なものとの両立は現在では避けて通れない問題であると考えている。

(注1)『在野研究ビギナーズ』以外で私が知っている範囲で例をあげると、『独学の冒険─浪費する情報から知の発見へ』礫川全次(批評社, 2015年)、『これからのエリック・ホッファーのために 在野研究者の生と心得』荒木優太(東京書籍, 2016年)、『在野学の冒険』礫川全次編(批評社, 2016年)、『独学で歴史家になる方法』礫川全次(日本実業出版社, 2018年)、『独学大全』読書猿(ダイヤモンド社, 2020年)など

(敬省略)

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