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橋川文三『歴史と体験 近代日本精神史覚書』についてのメモ⑤—「怒り」をどのように捉えるか?

 橋川文三は『歴史と体験 近代日本精神史覚書』(春秋社、1964年)に収録されている「失われた怒り―神風連のことなど」で「怒り」を検討することについて興味深い見解を述べている。以下にその部分を引用してみたい。

わが国と近代史において、怒りという言葉があてはまるもっとも典型的な形象の一つが神風連ではないかと私は考えている。そこには、日本人の怒りに含まれるさまざまな特質が、ある深い根拠の暗示をともなってあらわれているように思われるからである。しかし、まずはじめに、怒りの本体ともいうべきものについて、走り書的な感想を述べることにしたい。/怒りはある侵害された正義の意識において生ずるといってよいであろうが、そこでは、そのいわゆる正義の意識の社会性ともいうべきものと、その個体性というべきものとが深い意味をもってあらわれるといえよう。たんなる他者からの攻撃や侵害は、憎しみや軽蔑、嫌悪や憐れみの情をよびおこすことはあっても、それはただちに怒りをよびおこすとはいえない。怒りの中には、いわば怒るものの絶体的な個別感情のトータルな、デモーニッシュな爆発が含まれねばならず、ある非合理な自己主張の意味が含まれねばならない。

 ここで橋川は「怒り」を人びとの個体性と社会性が発現するものと考えている。以下の記事で紹介したように、橋川は「個体」と「普遍」がどのように結び付けられるかを考えており、自分の体験を個体を超えて続いていく「歴史」に結びつけ、その結び付きが適切であるかどうかを常に反省する意識である「歴史意識」の必要性を述べている。橋川は「怒り」を「個体」と「普遍性」を結び付ける「歴史意識」を生み出す契機であると考えていたため、「怒り」に注目していたと推測される。

 橋川は日本浪漫派、黄禍論、1930年代の青年将校の思想などあまり取り上げられなかったテーマを検討したと言われているが、これらの個別のテーマを「歴史意識」の形成を検討する事例としても関心を持っていたのではないだろうか。

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