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たまには時事ネタでも―梅棹忠夫と渋沢敬三の交流のはじまり

 今年は梅棹忠夫が生誕100年だそうだ。今回は梅棹に関しての記事を投稿していきたい。梅棹忠夫と渋沢敬三は深い交流があったことが知られている。特に渋沢が構想していた現在の国立民族学博物館の構想を渋沢の死後に引き継いで設立に尽力したことが知られている。

 彼らはどのように知り合ったのだろうか?2001年5月に発行された『季刊 民族学』第25巻第2号に掲載されている梅棹忠夫・熊倉功夫・中牧弘充の鼎談「コレクションの思想」から以下のような梅棹の発言を発見した。

梅棹 最初に渋沢さんにお会いしたのがいつだったかははっきりとおぼえていませんが、三田綱町の渋沢邸の前までいった記憶があります。そのときは鹿野忠雄といっしょでした。(中略)
熊倉 鹿野先生とごいっしょだとすると、戦前ということですね。
梅棹 明らかに戦前です。鹿野さんがボルネオにむかったのは一九四四年ですからね。
(中略)
梅棹 戦前の記憶はそれくらいですが、戦後はよくお会いしました。(後略)

 鹿野忠雄は台湾の生物、地理、遺跡、原住民を調査していた研究者で渋沢の運営していたアチックミューゼアムに出入りしており、渋沢は一部の台湾に関する調査を資金的、人的な面から鹿野の援助を行っていた。上記の梅棹の発言から鹿野を経由して渋沢と知り合ったことが分かる。

 しかし、この記述だけだと正確な時期は特定することができない。上記の引用箇所にもあるよう鹿野は1944年に南洋地域の民族の調査のため陸軍によって派遣され翌年には消息不明になっている。ここからは推測になるが、1944年以前の梅棹と鹿野の共通点を考えると、梅棹は1941年に京都帝国大学の理学部に進学しており、鹿野は1941年に同じく京都帝国大学から理学の博士号をえている。おそらくこの前後で知り合ったのではないだろうか?また、両者とも登山家としての一面ももっているので、登山つながりで知り合った可能性が考えられる。

 余談だが、『鹿野忠雄―台湾に魅せられたナチュラリスト』山崎柄根によると、鹿野は学籍は東京帝国大学においていたものの取り組んでいる研究が領域横断的であったため東大では理解されず京大で博士号をえたという。

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