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『共同幻想論』と『想像の共同体』―似て非なる問題関心とその射程

 『共同幻想論』吉本隆明と『想像の共同体』ベネディクト・アンダーソンは書名が似ているためによく比較されている。例えば下記ように比較されている。

・『共同幻想論』が出版されたのが1968年、『想像の共同体』が出版されたのが1983年で、吉本隆明の方は先に書いているのですごい。

・『想像の共同体』の方が『共同幻想論』よりも学術的であるのですごい。

 両者は本当に比較できるものなのだろうか?結論だけ先行させてもらうと、私は両者は別の問題関心で書かれているためそもそも単純に上記のような比較はできないのではないかと考えている。

 私が読んだ限りでは、『想像の共同体』の問題関心は「近代国民国家」が人々の内面に立ち上がり「国民化」されていく過程にあると思う。問題関心はあくまで「近代」にある。一方で、『共同幻想論』の問題関心は近代に限らず「国家」という共同幻想が人々の内面に立ち上がった起源にまでさかのぼることにある。『古事記』や民間の伝承を集めた『遠野物語』柳田国男を主なテキストとして利用していることから、その問題関心は近代よりはるか前の古代にまで達している。1970年にされた講演『幻想としての国家』に分かりやすく説明されているので引用してみよう。

(前略)われわれは、そういう面の共同性ってものを、共同の幻想性なんですけど、こういう意味の共同幻想性ってものを、国家っていうふうに呼ぼうとする場合には、どういうふうにして呼びうるかっていうと、それは、統一的な部族社会ってものを形成したっていうふうなときに、非常に原始的な形態ですけど、最初の国家の形態っていうふうに呼ぶことができます。そうしますと、だいたい統一的な部族社会ってものが形成されたとき、わが国だったら、それは、いわば、農耕的な社会ってものにはいってきているわけです。ここではなんらかの理由で、どこからそれがきたかってことは別として、稲作ってものを基盤にした農耕的な社会ってものが形成されてきたわけです。そこで、はじめて国家っていうふうに呼ぶことができるわけです。(後略)

 上記の文章の中で論じられている吉本の歴史の考え方があっているかどうかは別問題として、吉本の問題意識がはるか近代以前―この文章中では稲作が日本列島に流入した地点―までさかのぼることを問題関心として持っていたことが分かる。

 以上とても簡単にみてきたが、『共同幻想論』と『想像の共同体』は問題関心やその射程は別物であったということが言うことができ、上記に例示したような両者のどちらがすぐれているかというような比較は簡単には成り立たないように思える。そのため問題関心やその射程まで戻って比較をしてみたい。

 『想像の共同体』が主張している「近代国民国家」が近代の産物であるという問題関心に従うと、近代が後期近代(ポスト近代)に移行していくと消滅していくことになるだろう。しかしながら、昨今の情況を考慮すると消滅するどころから逆に「近代国民国家」という想像の共同体の力は強まっているように感じられる。(注1)このような情況下でこそ、吉本が『共同幻想論』で提示したような近代のはるか以前までさかのぼって「国家」を考えるという問題関心が思い出されてもよいだろう。

(注1)『社会学』有斐閣(長谷川公一、浜日出夫、藤村正之、町村敬志編)を参照した。

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