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木村哲也さん編『内にある声と遠い声—鶴見俊輔ハンセン病論集』についてのメモ④―スティーヴンスンと近代日本

 以下の記事で木村哲也さん編『内にある声と遠い声—鶴見俊輔ハンセン病論集』(青土社、2024年)に収録されている鶴見俊輔の人物紹介が興味深いとして取り上げたが、他の人物のことも取り上げていきたい。今回取り上げたいのはスコットランドの作家・ロバート・ルイス・スティーヴンスンに対する鶴見の評価である。

鶴見はスティーヴンソンのことを以下のように評している。

スティーウンスン、ロバート・ルイス
灯台建築家の息子として一八五〇年スコットランドのエディンバラに生まれた。父のすすめでエディンバラ大学工科に入ったが科目が気にそまず、怠けがちであったところ、おなじ学科の日本人が猛烈に勉強するのを見て、なぜかと尋ねたところ、彼らの師吉田寅次郎の生涯についてきかされた。その話に感銘をうけた『吉田寅次郎』という小伝を書いた。吉田松陰の伝記として世界でもっとも早い作品のひとつである。(中略)結核をわずらい、自分にふさわしい気候を求めて太平洋諸島を周航し、一八九四年サモア島でなくなった。(中略)夏目漱石はスティーヴンスンの作品を好み、『坊ちゃん』のタネをそこからとった。日本の近代文学屈指の文章家中島敦は、サモア島における晩年のスティーヴンスンを主人公として『光と風と夢』(一九四二年)を書いた。

 スティーヴンスンがここで取り上げられている理由はこの作家がハンセン病と関わっていたからである。木村さん編にも収録されている鶴見の「五十年・九十年・五千年」によれば、スティーヴンスンはハンセン病患者の集団が住んでいたモロカイ島を訪れて彼らを助けていたダミアン神父という人物に出会った。亡くなった後ダミアン神父は中傷にさられていたが、スティーヴンスンはダミアン神父の名誉を守るためパンフレットを発行した。そのパンフレットには、「ダミアンが豚小屋のような家ではたらきつづけて死んだという事実を描き、そのおなじ時にハイド牧師(Kamikawa注:ダミアン神父を中傷した人物)たちがハワイでこの文明社会の指導者として金持ちのくらしになれ、そのぜいたくの中から言語のレヴェルでの正義にもとづいてダミアンを非難することの不つりあいに光をあて」てダミアン神父を「あなた(Kamikawa注:ハイド神父)や私(Kamikawa注:スティーヴンスン)のようなものよりはるかにすぐれた人として、私たちの夢みさえしないことをやってのけた勇敢な人である」と述べられたという。このようにスティーヴンスンはハンセン病との関りをもっていた。

 上記に引用した前半部分で述べられているスティーヴンスンが吉田寅次郎の伝記を作成したことに関しては、鶴見俊輔・関川夏央『日本人は何を捨ててきたのか』(ちくま学芸文庫、2015年)では以下のように語られている。

鶴見 (前略)ロバート・ルイス・スティーヴンソン(小説家。一八五〇~九四)はエディンバラの工学部で勉強するんだが、親父が有名な灯台建築家だったので嫌々やらされていてね。勉強しない。ところが、同じ工学部に日本人がいて、英語が不自由なのにものすごく勉強する。スティーヴンソンはびっくりして、どうして勉強するのかたずねた。そうしたら、たどたどしい英語で教えてくれた。「自分たちの先生に吉田寅次郎という人がいた。この人はこういう人で二十代で殺された。殺される日まで学問した」とね。
(中略)
鶴見 彼は近代文明を超える別の生き方があるということだけは忘れなかった。やがて南海の海に行って果てる。だから、彼にとって伝説の中にいる吉田寅次郎というのは個人なんです。
(後略)

 ここで鶴見が使っている「個人」は近代以前にいた学歴や肩書によらずに活動していた「自在な個人」を意味している。ここで鶴見はスティーヴンスンが近代以前に日本にいた「自在な個人」に注目したことを高く評価していたのだろう。

 スティーヴンスンがハンセン病患者を助けたダミアン神父と吉田のような「自在な個人」に注目したことは近代のレールから外れた地点から近代を見つめなおすという共通点があると鶴見は考えていたように私には思われる。この視点が最初に引用したように夏目漱石や中島敦に影響を与えていたという鶴見の指摘は興味深い。鶴見の人物評価は冒頭に引用したような近代日本から外れた場所で形成された思想や水脈を掘り起こすだけでなく、近代日本の中にありながらも外に接続する水脈を発見する作業でもある。

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