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徳富蘇峰と民俗学研究者の意外な(?)交流③―秋田県の富木友治の場合

 下記の記事で度々取り上げてきたように、明治・大正・昭和を通して活動していた言論人・徳富蘇峰は初期の民俗学の関係者と交流があったことが分かってきた。その交流が、有名な人物だけでなく、意外な地方の人物にも及んでいるのが興味深い。今回紹介するのも意外な地方の人物だ。

 先日投稿した記事を書くために調べていたところ、秋田県の民俗学の研究者・富木友治(とみきともじ)と蘇峰の間で交流があったらしいことが分かった。神奈川県二宮町の徳富蘇峰記念館に富木から蘇峰への書簡があるというので、私のnoteではおなじみ(?)となった同記念館の書簡検索をしてみると、昭和に富木から蘇峰宛の書簡が2通あることが確認できた。

 蘇峰と富木はどのような経緯で知り合ったのだろうか?書簡検索のページの富木の紹介に「平福百穂の甥」という記述が確認できる。平福百穂(ひゃくすい)は画家として知られている。ウェブ上で閲覧できる秋田県広報ライブラリー内の『あきた』の通巻23号掲載の「平福百穂血」奈良環之助という文章から縁関係を検討すると、百穂の妹たつの夫が富木庄助という人物で、彼らの間に誕生したのが友治だったのではないかと推測できる。さらに調べていると、友治の兄が富木謙治という高名な武道家であったことが分かった。謙治が指導していたという成城大学の合気道部のホームページで閲覧できる年表によると、謙治の末の弟が友治であると述べられている。したがって、富木友治と平福百穂は親戚であったことが分かる。

 蘇峰は百穂と非常に深い交流があった。「平福百穂」奈良環之助によると、百穂は蘇峰が社長をつとめていた国民新聞社に挿絵画家として1907年に入社している。蘇峰は百穂のことを非常に高く評価しており、「自分達がする日に数百行の論説よりも、百穂先生の描く一枚のスケッチの方が遥かに有効である」と評したという。後に蘇峰は百穂の墓石も書いていることからもその評価の高さ、交流の深さが伺える。前述の徳富蘇峰記念館には、百穂から蘇峰への書簡が48通も残っており、このことも彼らの深い交流を裏付けている。

 上記より蘇峰と富木友治の交流は平福百穂関連ではじまったのではないかとと考えられる。友治は『百穂手翰』、『平福百穂書簡集』の編集を行っている。推測になってしまうが、これらの書籍の編集や出版に関して出版事業に精通している蘇峰に相談していたのではないだろうか。友治の書簡を実際に確認してみたいところだ。

 ここからは余談になるが、百穂は柳田国男とも交流があった。『百穂手翰』に柳田は、「平福百穂とその時代」という文章を寄せている。(注1)この文章によると、柳田は百穂が報徳会の雑誌『斯民』の画筆を手掛けたことがきっかけで知り合ったという。百穂の画を気に入った柳田は、自分が編集していた雑誌『郷土研究』、『民族』の表紙の画を百穂に依頼したこともあった。また、百福は柳田の弟の画家・松岡映丘とも交流があった。ちなみに、富木友治は柳田に民俗学を学んでいたので、当時の知識人の交友関係は意外と狭かったようだ。

(注1)『定本柳田國男集 第23巻』(筑摩書房)を参照した。

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