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南方熊楠の金銭トラブル―『南方閑話』の稿料問題

 南方熊楠が投稿していた『土の鈴』を発行していた民俗学研究者・本山桂川は、1926年に閑話叢書の1冊として自分の雑誌に投稿された南方の文章を集めた『南方閑話』を出版した。この本は南方の文章が彼の生前にまとまった形で出版された数少ないものであるため貴重であるが、この本の原稿料をめぐって南方と本山の間で金銭トラブルがあったようだ。(注1)

 このトラブルの一部が同じく南方の文章をまとめて『南方随筆』、『続南方随筆』を出版した岡茂雄の回顧録である『本屋風情』に登場する。『南方熊楠翁の自叙伝』という文章から以下のように引用してみよう。

(前略)翁の私へのお手紙には、しばしばこれこれの原稿の出版を認めるからいくら支払え、この原稿を渡すからいくらだれに送れ、この原稿が着いたら何々を買って送れという御指示があった。原稿売り渡しというやり方である。私は印税方式になさる方がよいと、事をわけて再三進言したのだが、いっこうお聞き入れがなかった。 (中略)上松(蓊)さんのお話によると、大正十五年の春『南方随筆』上梓の少し前、S書店から『南方閑話』が出版されているが、「その世話をしたM氏が、翁に届けられたものは、その何冊かと金三十円だけで、もう何冊送ってくれといったら、それでは自分の手許が困ることになるといってきた。そういう事情があったあとなので、ついあのような提言をしてしまった」という意味の説明をしておられた。(後略)

 上松蓊(しげる)は南方と深い交流のあった粘菌の研究者である。上記の上松の話として引用されている中ではイニシャルになっているが、S書店とM氏は『南方閑話』を編集・出版した「S書店=坂本書店」、「M氏=本山桂川」であることは明らかだ。『南方熊楠翁の自叙伝』の別の部分では、岡が上記のトラブルをきっかけに本山と絶縁したという南方の書簡が引用されている。南方にとっては大きなショックを受けたできごとであったのだろう。

 本山はこのことについてどのように感じていたのだろうか?『南方熊楠全集』平凡社の「月報2」には、本山が南方との交流を回想した「思い出すままに〔南方閑話前後〕」という文章が収録されている。この文章中に以下のような記述がある。

(前略)いつも貴重な執筆を頂きながら、それに対して稿料もさしあげられず、かねがね胸につかえていたので『南方閑話』をお手許に発送した折、産地から長崎郊外の名産「茂木枇杷」を一籠お送りした。(後略)

 この「稿料」が上記に引用した『南方閑話』の原稿料をめぐる問題かどうかは分からない。「いつも貴重な執筆」とあることから南方が継続的に投稿していた『鈴と土』に関することである可能性が高いと思う。ここで重要なのは、本山は南方に十分な原稿料を払えていないことを後悔していたということだと思う。『本屋風情』だけ読むと、本山が悪者のように感じられるが、本山も稿料問題に関しては後ろめたさを感じていたようにみえる。

 余談だが、この記事を書く途中で調べていると、『熊楠研究 第14号』に南方と本山を検討した論文「南方熊楠と本山桂川の交流 ―『土の鈴』から『南方閑話』へ―」が掲載されているのが分かった。この論文を読めば詳細が分かるかもしれない。

(注1)私が少し調べた限り、南方と本山のこの金銭トラブルに言及したウェブ上の記事をしては以下がある。

古本夜話37 岡書院の『南方随筆』
熊楠『南方閑話』のことなど

今さらまとめる必要はないとも感じたが、本山が南方に対して金銭的な面で後悔していたと思われる文章をたまたま見つけたので記事にした。

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