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『ファウスト』っぽい映画いろいろ

ある物語に見られるプロットが他の物語に受け継がれて、想像力が広がっていくということがあります。
きっと元の物語には人間の根源的なイメージが含まれていて、それを受け継いでいくことで別の作品が生み出されていき、豊かな作品群を作り上げていくのでしょう。

今回はそうしたものの中から一つ取り上げてみましょう。
題材は文豪ゲーテの代表作『ファウスト』です。

原作の『ファウスト』を作品化したものには下記のようなオペラがあります。

ですが今回の記事では『ファウスト』と似たプロットで描かれた映画4作品を紹介します。
「あれも『ファウスト』だったんだ」と思うと、一度見た映画でもより味わい深く感じられるかもしれません。

『ファウスト』とは

『ファウスト』とは18世紀から19世紀にかけてのドイツの政治家にして科学者、詩人でもあったゲーテがほぼ一生涯をかけて取り組んだ戯曲の大作です。
まずあらすじを簡単に説明しておきましょう。

天上の世界で悪魔メフィストフェレスは神と賭けをします。
満足することを知らぬ学者ファウストを自分が堕落させられるかと。

メフィストフェレスには勝算がありました。
ファウストが人間の力で成しえることには所詮限界があったのです。
そこでメフィストフェレスはファウストに一生従う代わりに死後の魂をくれるよう持ち掛けます。
ファウストはそれを承諾し、「時よ止まれ、お前は美しい」と言ったら(つまり満足したら)魂を奪ってもいいと約束するのです。

その後ファウストは魔法で若返り、二人はいろんな冒険をしていきます。
純朴な娘グレートヒェンとの恋と彼女の悲劇的最期。
魔界の訪問。古代ギリシャの美女ヘレネとの結婚と息子の死。

皇帝に仕えたファウストはその貢献により海辺の領地を手に入れ、干拓事業を始めます。
そこに新たな土地が生まれ、多くの人が幸福に暮らす場面を想像することで幸福感に満たされた彼はついに言葉を発してしまいます。
「時よ止まれ、お前は美しい」と。
その瞬間にファウストは死にます。

メフィストフェレスの勝利と思えましたがその瞬間、神はファウストの魂を奪い、天上へ運んで行ってしまいます。
神は“永遠の”努力に満足を感じたファウストを「堕落」とは見なさなかったのです。
天上界に迎えられたファウストの魂はかつての恋人グレートヒェンの魂に導かれて、なお高みへと昇っていくのでした。

『生きる』(1952年)

最初に紹介するのは日本が誇る名監督、黒澤明の名作『生きる』です。

市役所の課長で無気力人間の“渡辺”は、ある日体調不良で受けた診察で自分が胃がんであることを悟ります。
余命いくばくもないと思った彼は自暴自棄になりますが、既に成人した息子は父親に冷たく、夜遊びは真面目な渡辺にはやり方すらわかりませんでした。

彼は居酒屋で黒ずくめの格好をした“小説家”と出会い、夜遊びに連れて行ってくれるよう頼みます。
そこで小説家は『ファウスト』のメフィストフェレス気取りで、渡辺と一緒に夜の街へ繰り出します。

“あなたのために喜んでメフィストフェレスの役を務めます”
(足元にいる犬を見て)“おあつらえ向きに黒い犬がいる。案内しろ!”

※最初にメフィストフェレスがファウストの前に現れた時、彼は黒い犬に化けていました。

ですが小説家は渡辺の気持ちを何ひとつ晴らすことはできず、二人の冒険は敢えなく一晩で終わってしまいます。

その後渡辺は役所の事務員“小田切”と親しくなり、何度か会うようになります。
そして溌溂とした彼女に惹かれた渡辺は思い切って人生の虚しさを語ります。
すると彼女は「何か作ってみたら?」と勧めるのでした。

小田切の一言に啓示を受けたようになって駆け出す渡辺。
折しもカフェでは別の客の誕生会が開かれていました。
覚醒した彼を祝福するかのように「ハッピーバースデー」の歌声が響く場面で映画の前半が終わります。

階上に向かう誕生会の主賓と入れ違いに、渡辺は階段を下っていきます。
陰鬱な空気が続く中、突然に始まるキラキラしたシーンが感動的です。

後半では既に亡くなった渡辺の葬式に集まった同僚たちによる回想で構成されています。
渡辺は生まれ変わったようになって、ある下町での公園建設に注力し、反対者をしつこく説得していって遂にそれを完成させます。
そこで嬉しそうにブランコに揺られるところが渡辺の最後の姿でした。

『ファウスト』との類似は明らかですね。
メフィストフェレス役はもちろんですが、グレートヒェン役の小田切、生きる意味とは…

舞台設定はいかにも日本的ですが、背景にあるヒューマニズムは国や時代を越えた普遍的なものだということを私たちに教えてくれる素晴らしい映画だと思います。

『悪いことしましョ!』(2000年)

次の作品は2000年のアメリカ映画『悪いことしましョ!』です。
マイナーな映画なのでしょうか?ネットでもあまり情報は出てきません。
軽い気持ちでも楽しめるコメディなのですが、悪魔との契約、いくつもの人生を経て主人公が真実に目覚めるというプロットは『ファウスト』と同じで、実際に“現代版『ファウスト』”と公式パンフレットに書かれています。

コールセンターに勤めるダメ男君のエリオット。
彼には片思いの相手アリソンがいましたが全く相手にされません。
そんな彼の前に絶世の美女が現れて言います。
「私は悪魔。私に魂をくれるなら7つの願いをかなえてあげる。」

悪魔と契約したエリオットはいろんな男の人生を試しますが、なぜか全て酷い結果になってしまいます。
そして悪魔は最後の願いをエリオットに迫ります。
ところが彼が最後に願ったのはアリソンの幸せでした。
がっかりする悪魔。
契約書には「真の善行によって契約は無効となる。」と記されていたのです。

さあ、どうですか?
最後の気付きが「永遠の努力」から「愛する者の幸せ」に変わっているような気もします。
どちらかというとこの方がわかりやすいというか、現代的なのでしょうね。

『コンスタンティン』(2005年)

キアヌ・リーヴス主演のダークヒーロー、コンスタンティンが主人公の映画です。
コンスタンティンはヘビースモーカーのやさぐれ悪魔祓い師。
長年の悪癖のせいで末期の肺がんを患っています。

彼はある時、悪魔が直接入ってこれないはずの人間界に入り込もうとしていることを察知します。
自身の超能力や味方たちの力でその計画は明らかになります。
それはサタンの息子マモンが独断で人間界に入り込もうとしているというものでした。

味方たちは次々と悪魔の手下に殺されていきます。
敗北を覚悟したコンスタンティンは手首を切ってサタンを呼び出します。
サタンに気に入られている彼は自殺をして地獄行きするときには、サタンが直々に迎えに来ることを知っていたのです。

マモンの勝手を知って彼を地獄に強制送還し、意気揚々とコンスタンティンを引きずって帰ろうとするサタン。
その時コンスタンティンの体はサタンの手に逆らって天に向かっていきます。
「自己犠牲」によって魂は救われたのです。

「そうはさせねぇ!」とサタンはコンスタンティンの怪我も病気も治してしまい、昇天そのものを阻止してしまうというオチでこの映画は終わります。

一人の人間の魂を巡って神と悪魔が競い合い、地獄行きの寸前で神に救われるというプロットは『ファウスト』そのものです。
やさぐれコンスタンティンも禁煙を始めるということで、ちょっぴり“努力”を始める気になったようです。

『ピノキオ』(1940年)

ピノキオ』はディズニー長編アニメの第二弾として制作されました。
原作の『ピノッキオの冒険』から主人公のキャラクターをアニメ向きに修正したため風刺的意味合いは薄れましたが、それでも“子供らしさ”に対するシニカルな視点は失われていません。

あやつり人形ピノキオは所詮は木偶人形で、糸で操られる存在です。
つまり自立した精神を持たない“半人前”の象徴なのです。
彼の冒険譚は“迷い”や“苦悩”といった大人の姿ではなく、“虚栄”と“怠惰”に流されてしまう子供の姿を表しています。

例えば「遊びの島」へ連れていかれるエピソードでの悪ガキたちの姿に“子供らしさ”への皮肉がたっぷりと見て取れます。
仲良くなったランピーはいかにも育ちの悪そうな風貌で、いつも唾か鼻水かを飛ばしています。
「遊びの島」は子供の天国のような触れ込みですが、はっきり言って地獄の情景です。
島全体がカオスと化しています。ケンカが娯楽となっており、皆がタバコを欲しがっています。
宮殿に群がる子供たちはひたすら破壊活動に耽っています。

このあとはご存じの通り子供たちは皆ロバ(愚か者の象徴)に変身させられ、売り飛ばされるのです。
ピノキオはすんでのところで島を逃げ出し家へ戻りますが、ゼペットはピノキオを探しに行って海に出たところをクジラに飲まれていました。

ピノキオも自らクジラに飲まれてゼペットを救出しますが、岸まで泳ぎ着いた時ピノキオの息はありませんでした。
ですがピノキオの自己犠牲を認めた妖精によってピノキオは人間の少年として生き返り、ハッピーエンドとなります。

物語を振り返りましょう。
主人公ピノキオの相棒は悪魔ではなく、理性的なコオロギ、ジミニーです。
あれ?『ファウスト』じゃないの?
いいえ、実はコオロギの存在こそが『ファウスト』なんです。
メフィストフェレスが最初に登場した時にこうした台詞があります。

(神に向かって)
あなたが人間たちに天の光の影(知恵)をお与えにならなかったら
もう少しは上手く暮していくのでしょうがね。

人間たちはあれを理性と言って、どうそれを使うかというと
どの獣よりも獣らしく振舞うために使うのです。

まあ、あなたの前だが、飛足のある虫の中の
『こおろぎ』という奴のように
飛んだり跳ねたりばっかりしていて、
すぐ草の中に潜っては昔のままの歌を歌う。
草の中だけで我慢していてくれれば結構だが、
どのドブにも鼻を突っ込みやがるのですよ。

森鴎外の訳を一部修正

コオロギこそは理性の象徴。
ただしメフィストフェレスが小賢しい理性への皮肉として挙げたコオロギが『ピノキオ』では本当の理性として扱われているのです。

またピノキオは魂が救われる物語ではありません。
真の魂を与えられる形で彼には救済が訪れるのです。

救済の仕方の違い

『ファウスト』はゲーテがプロテスタントであったことからもわかるように「永遠の努力」自体に救済がありました。
『生きる』も地道な努力に達成感を感じる日本人らしさが描かれていました。
ですが『悪いことしましょ!』『コンスタンティン』『ピノキオ』は「自己犠牲」という善行によって救済が“与えられる”というプロットになっています。

私はこれには多分にカトリック的な宗教観を感じます。
プロテスタントの国アメリカなのに不思議な気もしますが、アメリカの映画界にはカトリック的な風土があるのでしょうか?

今回紹介した映画を見ると、惑って、頑張って、最終的には何か救いが得られる、そんな物語のプロトタイプがあるのだろうかと思えます。
人間の真実なのでしょうね。

「じゃあ、これも『ファウスト』?」と言いたくなる作品も思いついてきませんか?
『ファウスト』よりも前に遡ることもできるかもしれません。
思いついた映画や物語などありましたらコメントをいただけると嬉しいです。
それでは!

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