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諍いには嫌悪感と悲しみばかり 1/n

幼少期から誰かと誰かの諍いを見たり聞いたりすると,胸のざわつきを感じてばかりであった.

成人してセルフコントロールスキルを少しずつ成熟してきてからは,自身の課題(アドラー的に言うと)でない限りは,そこまで胸のざわつきを感じなくなった.
が,少しだが嫌悪感と悲しみがわきおこることに変わりはない.

はっきり言うと,諍いは非常に嫌いだ.
世界からなくなればどんなにいいかと2日に1回くらい(?たぶん?)考える.

人と比較してもあまり意味はないと思うけれど,おそらく諍いには他の方より敏感なのかもしれない.

同義のパラメータではないかもしれないのだけれど,人との対話において,自分の感情の動きを爆発させず慎重に生きてきた.特に関係性を悪くするかもしれないと感じるような状況や文脈では.

諍いに関して,感じたり考えたりすることは僕の人生においてそれなりに多くの機会があった.

僕にとってのそれとは,家庭と学校という考え方によってはとても「閉じた」コミュニティにおいてだった.

まず,家庭内の不和である.
両親は喧嘩というには少し生やさしい表現でなくお互いを否定するような,子どもの頃の僕と弟妹にとって悲しいやりとり毎日のようにしていた.

先に今の話をすると,両親のお互いへの理解が徐々に深まってきたのか(長い目で見ると本当に徐々に…),そこまで昔ほどの喧嘩は見なくなってきた気がする.

それはそれで両親にとっての子どもとして,嬉しい気持ちなのだ.僕にとっっての家族観が変化するライフステージであることや考えるきっかけが世界の見え方として変わってきたこともありなおさら.

コミュニティに関しては,ざっくり言うと,今まで所属してきた組織やコミュニティでは諍いのないところはなかった.
大なり小なり多いなり少ないなり,所属している人の個性が混ざり合ってできるものだと思うのですが,原因を抽出・分解すると共通しているような気がする.

どれくらいまで記すことができるか不明ですが,気分に任せてゆるりと記していければって感じです.

サムネイル:2020年1月 長崎県福江島のとあるカフェの店頭

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世界が豊かになるように,まずは自分がささやかな豊かさを味わわせてただきたく。