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【こえ #3】喉をお蕎麦が通りづらくなった…

木村 孝さん


 一度目が2005年に名古屋支社に単身赴任していた現役バリバリの頃、木村さんの喉をお蕎麦が通りづらくなった。声はかすれていなかった。近くの診療所に行けば「夏風邪」と診断された。
 それでも喉のつまりが解消されない。偶然にも「それ、おかしいから」と大病院を勧めてくれたのは歯医者さんだった。大病院に行き廊下でいくら待っても名前を呼ばれない。偶然にも「よければ、私が見ますよ」と言ってくれた先生は翌日にすぐ電話をくれた。「喉頭がんのステージ4です、すぐ手術を」。これらの偶然が重ならなければ、手遅れだったかもしれない。

 二度目にがんに侵された喉頭(空気の通り道であり声帯を振動させて声を出す働きもする)を摘出する手術だけではなく、併せて一部切除した食道(食べ物の通り道)を小腸の一部を採取して移植する空腸移植再建手術も行った。
 木村さんは、お父様が70歳を過ぎてからがんの手術を4回も受けられ、毎回徹夜で看病した経験があった。だから、がんであれば仕方ないかと「がんという言葉に順応し」「声を失っても仕方がない」「一生筆談でもいいか」と思っていた。
 そんな木村さんに、また偶然にも看護師さんが、声帯を摘出し声を失った人に対して発声訓練を通じて社会復帰を支援する「銀鈴会(ぎんれいかい)」の存在を教えてくれた。退院したその足で向かった。

 再び発声する方法の中で人工の器具を使わない方法が「食道発声」。まず口や鼻から食道内に空気を取り込み、その空気をうまく逆流させながら、食道入口部の粘膜のヒダを声帯の代わりに振動させて音声を発する。つまり、人為的に「ゲップ」を出し、それを新しい声にする。
 一音でも出せれば二音三音と言葉になっていくが、このコツをつかむまでに時間がかかる人が多い。しかし、木村さんは最初から「新しい音」を出すことができた。自宅まで電車で帰れば20分のところ、「嬉しくて嬉しくて、その日は一音を出しながら1時間40分もかけて歩いて帰った」。自然と「声を失っても仕方がない」「一生筆談でもいいか」という諦めは消えていた。

 あれから発声の訓練を続けて18年。認定喉頭摘出者発声訓練士となった木村さんのもとには、自分が声を失ったことにイライラされる当事者や、泣かれるご家族なども訪れた。どんな人にもざっくばらんに接し、まずご家族に安心してもらい、当事者には声を取り戻すには努力が必要と厳しいことも伝えてきた。
 病院は手術の後まできめ細かくケアしてくれるわけではない。手術の内容によって適切な発声方法も変わる。声を取り戻すことの諦めも、最初に一音を出せた嬉しさも、その後の努力の大変さもすべて知っている。その経験を木村さんはこれからもシェアしていくつもりだ。

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