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考察:よか家族18

背中がぞうーーとする話

方言原文はこちら


母にとってはこの原爆手記を書くのは辛かったみたいで
書くのをやめようとしておばちゃんに相談したらしく。

おばちゃんは母の3つ上で原爆のその日は8歳ほど
母が辛いというと、そんなもんじゃなかったと

母が火垂るの墓をそんなもんじゃなかったと
そんなこと言わせないぞと言わんばかりのそんなもんじゃなかったと言われたそうな。

おばちゃんの話は想像を絶する話で
子供には聞かせられない、とまだ小学生だった私(3代目)は部屋の外へ追いやられたのを覚えています。

追い出さなくてもいいでしょうに。プンスカでした。


その時のもと防衛省のかたが、
長崎の原爆は山に阻まれ狭い範囲の被害だったのだが
島原の方が「被爆者手帳」を発行されたことに汚い口調で怒っていたのを覚えています。

病院代無料とかなのかな、被爆者手帳。
でも島原の方がその時たまたま長崎にいたら??

ということも気にせず家の中で母はプンスカ怒ってました。

原爆のこと気になったら
広島・長崎にいったら、ちらっと原爆資料館に言ってみてくださいね。

ちな、長崎の原爆記念公園にある独特のポーズを取った大きな像があるところは記念公園で

原爆投下地点は、そこから離れた寂れた公園です。

ここの段落よりより、母の極貧ひがみ話が始まります。
よかったら読み続けてください。


原爆投下のあとの生活は哀れなものでした。

原爆投下直後にどう動いたかですかね。。
よくわかりませんが貧富の差が激しかったそうです。

もう私には耳タコですが、白いご飯は憧れであり
お正月のみ食べられるものだったそう。

お正月はその頃は大切な文化だったようですね。
いまは神社に並びに行くカップルが多いお祭り状態のような気配があるような無いような。

そこでまた、母親がひねくれた思いを綴っています。
お餅があるおうちの子を羨ましく思った無いですと??

3代目が小学生の頃めっちゃくちゃ羨ましかったばい
といってたのにな。

方言原文と私が小さい頃に聞いた全力裏山のはなしはどちらがホントかね。。

おそらく後者かと。

原文一気読みはこちら。

好きくださったら、おばあちゃんから3代目、私の孫の5代目まで喜びます!

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