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よか家族

3代目が聞いた家族の話


街がなくなった時。
その時代に生きたばあちゃんと家族たちのお話です

※この文章は母がが入力した方言と誤字脱字、後半はひねくれた表現があります。

■第1話 はじまり 家族と青い閃光


これは母の原爆記です。!!!私は(芳野)は明治40年末広町(出島)に生まれました。主人は三菱電機ノ鋳物士で岩川町の工場におりました。

子供は7人おりましたが、病気たなんかで死んでいまは5人です。
原爆のときは西坂の本蓮寺の裏手に住んでいました。娘が4人男の子が二人おりました。

ちょうど1ヶ月前の7月7日、青年学校に行っていた長男が肺炎で死んだばかりでした。残った子は上が国民学校を卒業して徴用で長江醤油に努めとった、1番下の子は2歳の子でした。

原爆が落ちた時は奥の8畳の間で末の子を寝かしつけていました。ほかの子供たちもそばに下りました。

爆音が下ですが、解除になっているから遊軍機じゃろうてそのままにしよりましたら、

パーッと着たでしょうが、後ろの石谷さんの石垣にパーッと青か火のさしましたとですよ。

そしてその辺の物とんで、布団でも何でも細長い家を通ってほおり出されてしもうたとです。


■第2話 甕に鍋・お金とフスマ

(かあちゃん、、母ちゃんって)いうもんですけん

見てみれば畳みながら、
床下に落ちとっとげすよ。

床下に落ちた子ば引っ張りあげて、
ほかの子供たちと一緒に外に逃げ出したとです。

お金や預金通帳を入れていたカバンが
いくら探しても見当たらない

そのまま逃げたとです。

皆が後はよかけん逃げんね、
言うもんですけん

とにかく山手に逃げました。

上から見た時は大黒町辺りから、
煙のでよりましたばってん

まさかここまで燃えるとは思いませんでした。

山の方の五社神社というお稲荷さんまで逃げました。

その間に、
次男は鍋や釜を取り出して水槽の中に、沈めたり

フスマまで墓地に持ち出したりしましたと。

つづく。


■第3話 ああああ

これは私の母がかき残して、いたのを
姉が持ってきてくれたものです。


まだたくさん、ありますが
ぽつぽつと書きたいと思います。

原爆のことを。

当時のことを思い出すと涙が止まりません。


私は小さくて、

よく覚えていなくても、

この手記を読んだら少しずつ思い出して、

泣けてきます。


浜平(西坂の上)に主人の里親があったけん、

其処に行こうと、

どんどん山を登ったとです。


そして向こうから来る人に

浜平の様子を聞くと、

(もう浜平はもえおる。家もなんも中)って、


言うでしょうが。

浜平さん行っても駄目ばいねって、

思いました。


■第4話 少年


金比羅山の上から降りてくる、
兵隊さんに合ったもんだから

(どっちに、逃げたらよかでしょうか)

って聞くと左手は駄目だから
右の方へ行きなさい。

て言われました行きよったら、

神社の近くに顔も手もひどく、焼けた
15,6の男の子が座って、いて

(おばさん、おばさん、水のほしか、、、、、
っていうでしょうが。

もっとらんし(ちょっとまっとらんね)
って言うて五社神社へ行って水ば持ってきて、

その子に飲ませました。


焼けただれた手を、お稲荷さんばちぎって巻いてくれて、

〈お母さんたちも上がってきなっけん、
あんた、動かずに腰掛けときなさい。)

って顔も何も誰やら見分けをつかんごと焼けて、、、

動員で働きよったとでしょうたいね。



■第5話 燃える街と家

上え行く間、あちこち怪我人がいっぱいで

何処えいけばよかろうかて
思いましたばってん、

とにかく木の影の溝のある場所に
いったん落ち着きました。

ひとり座布団ば抱えておりましたけん、
それば敷いて皆を座らせてそのまま夜まで下りました。

その時長女が、(母ちゃん、母ちゃん、)
言う手あのカバンば出してくれました。

(あんたが持ってきとったとね。よかった)、、、

いいていうて喜びましたとよ。

本当に助かりましたとよ。

自分の学校の本はうっちょいて、〈置いて)きて、、、

良かったです。

その時はまだ下は燃えよらんやったですけど、
夕方ごろ上がってくる人に西坂んにき〈近く)はどうねって聞いたら

(もう燃えてしまいよる)っていうでしょうが、


ああ、何もかもなくなるとか、
と思うてもなんとも感じずに、

馬鹿になったごとなりましたとよ。



■第 6 話 母の記憶


昼過ぎころポツポツ雨の降りましたとよ、ひどうは中(あら、雨たいね)って言う位ですね。

上から見ればもう、街中燃えよっとです、4時、5時、頃、

私の家も燃えたとでしょうだいね。

夕方になるとお父さんたちが上がってきて

誰とかやー誰とかやーて名前を呼んで探し回りました。


あん、気の利いたうちの主人のなして来んじゃろか、
て思っておったとですよ。

それが、皆んなやられてしもうとっとですよもんね。

主人の追った岩川町の
三菱電機ノ鋳物分工場は全滅やったとです。


八月1日の空襲の時は主人は助かって
死んだ人の葬式したりしたとですよ。
〈助かった、助かった)ってゆうとりましたばってんね。

あとで兄弟たちが、鋳物分工場へ行ってみてくれたんですが、
もう何もなか、骨もなかったていうてきましたと。

私も子供がおるもんけん、
身動きならず、とうとうそのままです。
(父の遺体の事)

その晩は山の上に寝ました。
下の方は燃え続けて真っ赤になっとりますた。


■第 7 話 もう、どっか行こう

こまか子供は恐ろしがって、
皆んなやまの脇のくぼ地に入り込んで、
一緒に寝ましたと。

夜通し街は燃えて飛行機がしょっちゅうきよりましたとですよ。

朝起きて浜びらさんいこうか
どうしようかと思うたですばってん、


とにかく家ばみてこんばて
またぞろぞろ下りたとです。

もうきれいに焼けてしもうて
あちこちにタンスの引き手が散らばって
のこっ取った、だけです。

其処に残って火を消した人のはのこっとたばってん
うちのはもう何もなかったです。
焼けたり盗られたりしたとでしょうね。


水槽に入れたお釜でんなんでん、
しずんどったばってん
木のふたばっかり上に浮かんで焦がれとったですよ。

それからまた上がって浜平の親元に行ってみたら、
そこも家が吹き飛ばされてしまって
一時そこの防空壕におりました。


食事は大村へんから握り飯のきよったとばもろうたり
自分たちで炊いて食べたり。

握り飯はもうネマリ(くさり)よりました。

飛行機が飛んできて、
こまか子供どんは
(ほら、泣かすな飛行機にきこえるからってよういわれよりました。

一度は子供ばおんぶして飽の浦まで行ったことがありました。

瀬崎のへんでは軒下に馬が馬車ば曳いたまま死んどったり、
稲佐橋からなわさがっとっとに死骸のひっかかってぶらぶらしとったりねー、

カン詰め会社からはぽっぽって缶詰のとんできて
危ないし、歩かれんやったです。

電柱柱も上の方まで、燃えよるしねー翌日か翌々日
翌日か翌々日位やったでしょうだいねー。
何日間かくすぶとったです。

死骸ば焼匂いの聖徳時の所からずうと上のほうまできよりましたと。

浜平の壕に何日かおりましたが、
電気もなし、夜は真っ暗で、

子供が、(もうどっか行こう)っていうもんですけん、
熊本の姉のところへ行くことにしました。

電気の会社人でしょうかね。
駅前に出張してきた人からお金ばもろうて
長崎駅から乗りましたもう満員で止まり、止まり行ったとですよ。


■第 8 話 涙で続きが


私のおった車両には
怪我人がおらんやったです。

佐賀駅で止まって蚊の多かったとば覚えています。
とにかくたくさん乗っ取ったね。

熊本の下益城郡の姉のところには18日位おりました。

するとアメリカ兵の来るけん
皆避難せろって云うとですもんね。

姉も〈自分達避難すっけんあんた達どこかへ逃げんね)
って云うとですよ。

それでまた熊本と鹿児島の県境の
免田というところまで汽車でいきました。

今日はこの位でやめます。
涙でキーが見えなくなりもうこれ以上かけません。

また明日にします。


■第 9 話 月夜で道カンカン


伯父さんの家がそこにあって妹が疎開していっとったとです。

人吉で乗り換えていっとっとですが、
そんな時も、もうあたりまえに、乗らずに、
みんな窓から乗っとっとですよ。

窓の外には下駄履物が散々です。
私も裸足やったとでしょうだいね、

図分でも子供一人迷子にせず、用連れていきよったと後から、
思うたとですよ。

次男に大気か荷物ば背負わせて、ひとり、一人、残った鍋釜の道具や親戚からもろうた

敷物場こもうきびって(小さくむすんで)もたせてですね。

もう哀れなかっこうやったとですよ。

やっと、免田でおりたもんの、
言えば知らんでしょうが、ちょうど汽車の中から
(ほら免田はあそこよ)って教えてくれた人のありましたけん、助かったとです。
駅を出て、皆でぞろぞろ、後戻って生きましたとよ。

きれいか月夜で道カンカン照って、
遠くに明かりのみえとっとに、行っても行ってもいきつかんとですよ。

大きか子供は(母ちゃん狐にだまされとっと、もうここんにききにすいておろうや)
って言うしこまか子供はあるかんて言うし

そればすかし、すかし(なだめて)要約人家にたどり着いたとですよ。



■第10話 再開と束の間


そこは、クラブ(公民館)で、丁度そこにだずねていう家に人のおりましたと。

そいで、一緒にこんですかって、
言うてくれたたすかったとです。

妹達会うと、喜んでね。
妹の主人は、三菱電機の技術で、疎開のとき一度西坂の家に置いたことがあったとです。

そいでもしもの時はいつでもこいて言うとったですけんね、
それでも、大勢行って向こうもびっくりしたでしょう。
また明日にします。


1ヶ月もおりましたかね、お金はあったですばってん、
1里も先まで買い物に行きました。

※みそ、果物なんかをね、
塩の切れたときは駅ば二つも三つ行った長浜って所まで、行って
1升ようよう買って、きよりました。

そこの主人は学歴のありましたけん、
出征しても戦地には行かず、東京の何とかという学校に行ったとですが復員して、帰って着とりました。

風呂は本家でもらいよりましたが、
ある晩私が風呂のはいっとりました、ところが、其の主人が伯母さんと話しよるとが、
聞こえたとです。

(兄弟いるけんて云うて頼ってこられたっちゃ、、、)って
どうとかこうとかと言い寄りました。

それを、聞いて私はこの夫婦がけんかどんしてはたまらん、はよう帰らんばて。

家は無しても何とかなるやろうて、思うて帰ったとです。
2ヶ月とはならんやあったですね。


■第11話 どうでん、自分でせにゃならん、


長崎駅に下りたら」もうきれいに焼け野原になってしもうて、
さてどこに行こうかねって思いよりましたが、

まず浜平に上がって見ました。
主人の妹夫婦がおって、一緒にしばらく暮らしました。
山の上のおれば下の方の防空壕の片づけの音のしよりました。


まあだ働きにでるどころじゃなく、まず家ばなんとかせんばやったとですよ。


深堀にいっとた主人の兄弟たちも帰ってくるけん、はよう家ば見つけておくごと言われて

言われとりましたが、子供はおるしなかなか見つからずに。

ある晩、とうとう妹の主人がきて

(まださらずにいるのか)いうて怒り、たった今出てくれろって、言うとですたい。


妹は(今夜まだよかさ)って、いうたですばってん、晩御飯ばたべかけよったですばってん
そんまま荷物ばまとめてでたとです。

悲しかったですばってん、そんげん言われておるにはおられず、、
其の晩は本蓮寺の墓場で子供と寝たとです。

そしたら翌朝、昔の知り合いがきて、自分達が集めとった疎開の木材ば寄せて、元の家の上ん段のがけに立てかけて住まうだけの小屋ばたててくれたとですよ。
そこで、もろうとった、毛布で暮らしました。

仕事よりも食べ物の買い出しかかっとりました。
これまで主人ばっかりあてにしとりなしたが、どうでん、(どうしても)自分でせにゃならん、
17の息子ば連れて、その子のお母さんになる人を田結まで訪ねて行ってジャガイモ、とかかぼちゃとか売ってもらって、お昼ご飯場ばご馳走になって帰ってきよりました。

そのいもご飯のおいしかったこと、ねえ。
矢上の上のほうですよ。下の子供ばかろうて、(おんぶ)して歩いていきよりますた。

その遠いこと矢上の東望の浜通りにこしてまたずうとむこうさん、(むこうへ)いきよりますとよ・まだ若かったですけんねえ、

何か売ってもらえればそれが楽しみで。夕方遅く帰りよりました。
今日はこれまでにします。

■第12話 あっちこっち

小まか子供たちがお腹ば空かして待っとりました。
とにかく食べるとに、いっしょうけんめいでした。
朝から駅に出て、なにか分けてもらう人ば探して、あっちこっちのヤミ市にもよう行きよりました。

田舎に知り合いもなし、熊本は、遠いし、、、
もう食べ物買いばっかりしよりました。

だんだん、お金もなくなくなるし
近所の男の子にことぼし(小さい石油ランプ)ば買うてきてやるけん、って云う手1500円騙されて取られたこともありました。

進駐軍が、娘のいるところにはずうと遊びに来てチョコレートとか何とかくれよりました。

ばってんうちはみんなこまかし、大きな小は男ばかりでしょうが。おかしゅうしてね、

あのころは4千円で、家のたっとたですもんね。
まだお金はあったし、市役所に、頼んで大黒町んにきにあった、材木ばひぱってきて、畳なんかも取りにいって建てたとですよ。元の家のうえんだんにに土地ば借りて三畳と四畳半でしたかね。じ開きも自分達でしましたと。、、

そのころ熊本の姉から、また出てこんねって言われたとですよ。
家のお金ば払うってしまえばのうなるし、仕事場世話してもらう当てもないし、

私もブラブラしとったですけんね。思い切って、それからまた熊本に行ったとですよ。
何か仕事もあるやろうて、思うてね。

それが悪かったとですね。長崎におればよかったですばってんね。、、、、

再び子供らと熊本へ


■第13話 ほんに親切な人でした


姉の主人の本家はふとか百姓やで、
そこの小屋ばかりて自分で床ば敷いたりクドば作ったりして住みましたとよ、食べ物は配給をもらいよりました。
足らん分はもっとる品物と食べ物を交換して、、、、

配給所の人に姉が相談して、先の分、先の分と渡してもらいよりました。ヤミば買わんちゃよかごとですね。

お金もなくなったし、いろんな仕事場しました。
三つの村ば子供ばかろうて(おんぶして)二人、3人つれて新聞配達もしました。
その道、道たまご買いもしました。ですね。

水前寺公園の浦のにき(そば)進駐軍の土方の作業に、通うたこともあります。

子供は姉に頼んで、トラックいっぱい積み込まれて、足の置き場もなかごと座らされて運ばれていきました。

女も男もいっぱい、すずるっごと(こぼれる)ほど乗って。
紗の着物で冬の綿入れば作って着ていったことば、おぼえております。

ひろか、ひろか所で自分の現場ば離れれば元に戻りえんごと、ありました。
思うごと手仕事もなかとです。

皆がしよりましたけん。割り込むすきもなかとです、
暇の時は、わらぞうり作りもしました、上ん娘いっしょに加勢して、わらばたたいたり、、、縄ばなうとは隣の伯父さんの手伝ってくれて

、そしたら、奥さんの妬けてつろうあたられて、子供もいじめられてですね。
一足1円で、三十足作っても三十円ですよ。物価はまだ安かったったって云う手もね、、慣れん仕事ば次、つぎ採りましたと。

そのおじさんは姉の兄さんになる人で本当にお世話になりました。
農家とブローカー兼業の、ほんに親切な人でした。


■第14話 帰っておいで

そのうち長崎の姑さんから、代筆で手紙の手紙がきて、(自分もじいさんが死んで心ぼそうなった。)

物のある間は他の子供の来て泊ってくれた寂しくなかったばってん、なんも、亡くなると、誰も着てくれんようになった

お前の寂しさよう判るごとなった。
畑も少しあるけん、戻ってきて一緒に暮らそうって、書いてありましたとよ。


じいちゃんは原爆で鼻のところば少し怪我しとったけん、
そして私が熊本に行ってるときに死になったとです。

どうしようもなかってまた随分悩んだとですばってん、
私には他人でも子供達にはおじさんと、おばさんがおればなだましやろうかね、って考えて、

また戻ってきて、浜平いきましたと。

そしたら、4,5人おった主人の兄弟は、それを好かんとですね。

私が長男の嫁でしょうが。畑でもみんな分けてしもうとったですけんね。
とにかく、ばあちゃんの家で暮らす語となりました・六畳、四畳半の家やったとです、
細か子供(小さい子供)はそこから西坂小学校へ通いました。

1番下の子供もこっちで学校に入りました。熊本に3,4年おったでしょう
かね
製糸に行った長女と大牟田の次男は残してきてですですね。

あの三男の子は長崎まで来てそして、また帰りました。(もう一年辛抱せろって)ばあちゃんに言われてねー、まだ中学1年のころですけんね、、、
(もう少しこっちの暮らしようなったら、連れに行くけんね)って云う手聞かせて帰りました。

あとで製糸の姉が休みの時訪ねてきてくれたとですよ。
こき使われて可哀そうですもんね、はよう呼んでやってくれんねって自分は辛抱するけん、って手紙ば書いてきたもんですけんね。暇場ばもろうて連れ戻ししましたと。学校にやるけん、っていうてね。

でも学校どころじゃありもんですか私が働きよったけん、
その子が賄がたですよ。じゅう13歳でしたけん。、、、

少しや休みます。また昼から書きます。


■第15話 「原爆の証言」取材思い出し書き起こし


私はまだ色々拾い仕事でした、枇杷の時は(枇杷上げ9て云うて、貨車に積み込む仕事のありました季節の仕事ですけん、みじかかとですよ。

お盆前には墓掃除の仕事に頼まれていったりね。
畑はイもば2回だけとりましたかね。山の上ん方できつかったとですよ。
それであとは返しました。

民生院の人の世話で星野組に臨時で行ったとですが、そんな時分はひどかったですねぇ
(あんた1週間辛抱すればあとは楽になるけん)っていわれてねね、

なんばもってこい、がん爪ばもってこい、って云われても、その名前も判らずずいぶんまごまごしました。

松山の道路現場ですよ。7ヶ月ばかりいきました。マツや練炭にもはたらきました、

その頃上の息子が〈炭鉱はいや)っていう手帰ってきとりました。
長女はしばらく熊本におったとですが製糸は手が荒れるとですね。
皆んな帰ってきたわけです。

三男は、近所の親戚の人の世話で新地の中華園に行きました。
話を持ってこられたときは園子は釣りに行ってましたが、帰って来てどういうか本人がいくていうたらやりましょう。言っていたら帰ってきて話ば聞いて,〈僕いってよかよ)って云いましてやりましたと。

10年辛抱しました。そばに酒のあるもんのけん、肝臓を悪くして最後は肝臓に心臓ショックでしにましたと。
家内と子供一人残して孫は高校生です死んだ息子は体は小さかったですばってん頭は誰よりよかったとですよ。

今は子供たちはみんな独立していますが、貧乏しているのは私だけ
みんなどうにか、こうにか自分、自分で食べることになったけん良かったですばってん、私は今心臓が悪いし、胃腸も悪いし血圧も定まらんとです。


若い人や原爆ば知らん人たち言いたいことは、やっぱり(戦争はいや)っていうことですねもう二度といやですね戦争だけはしたくないです。

■第16話 アヤコ回想のはじまり


昨日はバテバテだった。今日は母のこと。。。。
父と母は大恋愛の結婚した当時としては珍しかったとのこと、一枚だで残っていた二人の写真を叔母から見せてもらった、美男、、美女、、のお似合いの写真でした。

二人ともニコニコしてた。その後叔母がきて親子6人で海水浴に行って、砂浜で写った写真をもらった(ここ何処と聞いたら東望の浜と言った

でもその6人はもういません。そのころが一番幸せだったでしょう。その阿知、、私たち3人生まれていますからね。戦争がはじまりさまざまな、苦労があったでしょう。

原爆が投下されて一瞬のうち不幸のどん底に、、、そして働かなければならなかっ母のエピソードを書きます。
配給された乾燥のつわぶき針金のようなもの、これって食べ物?とおばに聞いた、


水につけてやわらかくなって、食べると、、、
全部つけたそしたらどうしようないほどふやけた。


左官の手伝いをしていた頃雨が降ってきた冬だったので、焚火そばに並べた、ところフニャフニャになった。鉄と思っていたらしい、。。。どぶろく米粒が入った酒を茶碗に入れて1パイ飲んだ、よっぱらって仲間に連れてられ手帰ってきた。。

かんころ餅、、、五島の感頃餅を頂いたおいしかったそうです。それで自分も作ろうサツマイモにうるち米を入れ蒸してから擦りおろし、丸めて魚の市に入れて、2,3干したそうです。


みんなカビが生えて生えていたそうです。。。そんなこと私たちが大人になってから教えてくれた(^。^)今は懐かしく思い出します。


八月になると良くここまで育ててくれたと感謝しています。
9日は父の62回目の命日です。


■第17話 4歳8か月で見た猫

母は(芳野)はとても気丈な人でした、弱音を言うことを聞いたことがない、とてもやさしい人だった

私が覚えてる原爆は想像に絶する光景だった。

黒焦げになったまま、材木を担いでいる人。
その中を半分焼けた猫が、(ニャー、ニャーと泣いて)黒焦げの死体の上を歩いている

4歳8か月だった私はそれをはっきり覚えています。

そして火の玉が二つ、三つ繋がってふわ、ふわ浮いている1つだけで彷徨っているいる火の玉も、大橋の川で黒くなった人間がみんな川の中に顔を突っ込んでいる、水を求めて天国へ行った人たちでしょう。

小さかった私は
怖くて、怖くて、疎開列車の中でうずくまっていたこと、

隣の叔父さんが怖くないよと言って私たち姉妹を、慰める声、顔を上げられないほど怖かった、(まさに地獄絵)

その時の母はどのようにしていたのか、覚えていません。
多分、子供たちを、迷子にしないように一生懸命、守っていたのでしょう。

近年、、、火垂るの墓という映画がありましたね。
現実はあんなものではありません。もっと、、もっと惨めな事ものだった。
映画という作られた

※3代目より、母はここでいったん筆を止めています

■第18話 ランドセル

今日も曇り空、、、前回の原爆期あまりにも残酷な地獄絵をブログに書きました。

私も かいているうちに背中がぞうーとしてもう書くこと、をやめようと思いしばらく、は原爆のこと忘れようとしていました。

姉にそれを言ったら(そんなものではなかった)
もっと、もっと、ひどかったといいました・実に過酷な場面、、、現在の人たちにはけしてわからないことです。

でもぜひ、長崎、、広島に行かれたら原爆資料館に行ってみてください。

原爆投下その後の生活は哀れなものでした、食べるものがなく、白いご飯というと皆のあこがれでした。

だって正月しか白いご飯を食べられませんから、御餅といたっては正月3日日あればいいほうでした。

新学期が、はじまります、1月7日に学校へ行くと私の家はまだ御餅があるとか
きょうは、ぜんざいをつくってもらえるとか、いう子は組の中では一人いればいいほうだった。

でもそういう、話を聞いてもうらやましく、思ったことがないのです。

皆が食糧難だったhから、飛びう抜けてお金持ちがいたっても、皆平気でした。

妹は入学式のときにはランドセルがありませんでした。原爆のこともあんまり判らなかったでしょう。

それからしばらくして、バフン紙でできた。(今でいう段ボールです)でも強度は段ボールの半分もありません。
雨に濡れると、ふたのほうからひびが入り破れてしまうのです。

1年持てたでしょうか?でも妹は嬉しそうな、顔が今でもわすれられません。


■第19話 10円あると、芋あめが20個買えるんです


学校帰りは道のはしにはえてる、野草を取ってかえりました。

春になるとのびる(ねぎみたいなもの)とかたんぽぽ、
つわぶきなど食べられそうなみんなとりました。

そして畑に植えてあるトマトとか、キュウリをちょっと、拝借
でも昔の畑の持ち主である、叔父さん、おばさんはそういう行動を見ても、

あんまりおこりませんでした。

怒る人もいたけど、大抵見逃してくれたそうです。
私もかすかですが、おぼえています。

また明日にでも続きをかきたいとおもいます。


もう少し食糧難のことを書きたいと思います。

でも食べられただけでもいいかもしれません。
お米はというと、外米です。1粒が1センチくらいある長い米、とかタイ産のコメとかそれも配給されるんです。

米屋さんに米穀を通帳をもって行きてにいれるんです。
その外米がぜんぜんおいしくないのです。
バサバサしていてお米だけでは、食べられない、

だからサツマイモ入れたいもご飯ばかり、兄なんかは、お米より麦芋ごはんにしてと言っていました。

だから内地米とか、外米とか呼び名があったそうです。
内地米はお正月だけのお米だった。

だからお正月に白いご飯と、御餅は大変なごちそうだった。

みんなは、よく覚えているねと言います(でも最近のことは良く忘れます)


夏になると、稲佐川にあさり貝を掘りに行っていました。
三菱製鉄所の浦の川とても、汚い川です。

よくあんな汚い川のアサリ貝を食べたものです。
帰りに近所のおばさんにアサリを分けてくれんね、といわれて分けてあげたものです。
そうすると10円貰えたものです。

10円あると、芋あめが20個買えるんです。
嬉しかったですね。

でもアサリ貝は食べるのに2日間位かっかるんです。
塩だしにです。というか砂だしですね。

調味料といえば塩しかなかったです
砂糖はあったが買えなかった、その代わり、ミツゲンと言う甘味料がありました。
でもこれが後味がわるいんです。それしか使えな買ったです


■第20話 芋雨が今は懐かしい

果物と言えば野いちご、くろんじゅう(いちじくのちいさなかっこうをしたもの)

秋になると金比羅山にいってしいのみとかやまぐりを取りに行きました。
そして、くそばえがいっぱいついているちいさなぶどうみたいなものとか、、

さすがに私たちは」食べれませんでした。
でも男の子たちは食べていました。しかしいまは、おかねさえあれば、何でも手に入るし今の人たちは本当に幸せです。

10円で20個買えた、芋雨が今は懐かしいです。

昭和24年私は西坂小学校へ編入しました。
そのころの西坂小学校は、バラック校舎で屋根はとたん屋根、雨が降ると先生の声が聞こえません。

そのうち雨がひどくなると雨漏り机をもって、雨漏りしてないほうへ移動した。

体躯の時間は砂とか、バラス、バケツに」入れてリレー方式運びます。
足はと言えばわらぞうり、何度も運んでいるうち、足指が痛くなります。

そうすると男の子に、青びょうたんと言っていじめられました。
小さくて体力がなかった私はいつもいじめの、対象になって居たかもしれません。

当時の先生は、いじめる子供を見つけるとビンタをしていたことを、思い出します。(今こんな先生居るといいですね)


■第21話 缶詰


その頃はまだ、給食がありませんでした。
私のうちは弁当箱がありません。その代わりにトマトサージンと言う缶詰の空き缶、に麦飯入れて日の丸弁当です。

ふたがありません、だから最後まで食べないのです。
底のしましまがみえるからだから恥ずかしくて底の方に、少し残して新聞紙に包んで帰ります。途中でお腹が空くと道端で食べました。


土曜日は授業kお昼まで、家に帰ってふかし芋とめざしがおいてあります。
でも、サツマイモでもあればよかった何にもないときがありました。

母がどんなに苦労して私たちを育ててきたことでしょう。
一発の原爆さえ落とされてなかったら。


母のこんな苦労もなかったでしょう。
また明日続きをと思っています。


■第22話 最終話:怪獣おじさん(母の兄)


たった一発の原爆が浦上方面を地獄のどん底に突き落としました。
ほぼ全滅だったそうです。

その中で水を求めて、水を、、、水を、と言いながら大橋の川のに入っていったと聞きました。


水を飲めば死ぬという事がわかっていたのか、飲まずにはいられなかったのでしょう。
肩を抱いて起こそうしても手を引いて、あげることも、できなかった手を握ることさえできなかった、

手を握るとずるずると皮がむけてしまうのだそうです。
私は小さくてよかった、その現実を見ていないから、そんなことを思っていた。

それから何年たったでしょうか。

ある日兄から(怪獣叔父さん)お前どうして今生きているか知っているかと聞かれました。

何でと言ったら俺が助けたんだ、爆風で床下に飛ばされたと言う
避難所まで行ったら私が居ないことに、気が付いて探しに壊れかけている、家まで行ったそうです。

いえの中でなき声する、だけども何処にも居ない、鳴き声のする所に、行ったら床下に落ちていた。
だから俺が助けなかったら家とともに死んでいたんだと、、


翌日家は焼けてしまった。母と言えば色々な仕事をしていた、父が原爆で亡くなる間で働いたことが1度もなく仕事は何をしたら、いいのか
判らず色んな所で仕事を頼んで回ったそうです。

だから、土方とか左官さんの手伝いとか、できるだけ賃金の高いところを探して、働いたそうです。
慣れない仕事で寝込んだこともあるそうです。

自分は何にも買わないで、私たちのことばかり、、、明日遠足だと言えば残業まして、お米を買いおにぎりを作ってくれました。

グリコキャラメル、とかゆで卵など本当に嬉しかったです。


 **** 3代目追記 ****

ここでアヤコは筆をおき、続きをかくことはありませんでした。


よくここまで方言で入力練習をしたものです。(当時64歳)
方言て、難しくないですか?
入力候補に出てこないんですものw


アヤコが助けられた話はもうひとつ説がありまして、
おばあちゃんと話が食い違っていますw


どちらにしても生きていてよかった。

おじいちゃんは長崎市の岩川町で働いていたので、原爆投下地点のほぼ真下です。
おばあちゃんは結婚指輪を目印に探し回ったけれど見つからなかったそうです。

おばあちゃんはずっと指輪をしていて、これはおじいちゃんとの思い出だからはずさないよと笑顔で話していました。


アヤコ(母)はあまのじゃくで嘘なのかほんとなのかよくわからないのですが
嫌いなものは、缶詰とネコ、バナナ、マヨネーズで、
この話を聞いたときに、缶詰とネコを見たくないという理由は本当だなと思いました。

次回から3代目が話を引き継ぎ生活が落ち着いてからのことを書きます。

ここまで目をそむけたくなる景色描画がったかと思いますが、読んでくれてありがとう。


おばあちゃんと母が喜びます。
スキしてくれたら孫の代まで5代で喜びます。

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