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わたしについて④ 生い立ちから紐解く『不全感』【出生から幼少期】

※この記事から続いています。よろしければ覗いてみてください。

一部、「辛い」と感じられる部分がある方もおられるかと思います。無理のない範囲でお読みいただければ幸いです。

自営業を営む父と母のもとに
長女として生まれた
わたし。

無類の音楽好きだった母
わたしに「律子」という名前を
考えていたそうです。

そこへわたしのもう一人の母ともいえる
母の姉である叔母

「子どもに自分が果たせなかった
 夢を押し付けてはいけない」

と戒め『靖子』と名付けられたと
聞いています。

初子、初孫として
父母や父方母方両祖父母
叔父叔母にとてもかわいがられた
幼少期だったと記憶しています。

裏腹に
わたしを授かるのとほぼ同時期に
父方の祖母が末期癌をであることが判明し
父母は結婚後、子育てと同時に治療費の
工面
に走っていました。

手術をしても
ほぼ助からないと言われた祖母は
抗がん剤で髪はほぼ抜け落ちたものの
手術後命を取りとめました。

赤ん坊だったわたしは
祖母の風貌を見る度に
怖くて泣いていたそうです。


我が不全感の基、根拠ともいえる
わたしの『背景』について
理解しやすくなるように

父母について少し触れておきます。

母は高卒ではありましたが
今でいう三大財閥系の会社に就職

その会社で労働組合
幹部として中心的な働きをするなど

社会的な活動にも積極的に参加する
キャリアウーマンの走りのような

昭和前半生まれでありながら
男性とも肩を並べて仕事をするような

意識が高く、意志の強い女性でした。

それに対し父は
自営業を営む家の長男だったため
勉強は決して嫌いではなかったものの

中卒で丁稚奉公に出され
家業を継ぐために手に職を付け

良く言えば
おっとりと朴訥(ぼくとつ)として
悪く言えば世間知らずな

まさに「職人」という言葉が似あう
そんな人でした。

どうしてこれだけタイプの違う
父と母出逢ったのか

それは「音楽」です。

二人が知り合ったのは「労音」という
当時働く音楽好きな若者たちが
音楽を介して集う

今でいう「サロン」のような
当時「クラブ」と呼ばれた場でした。

生前の母が語るには
そこで父は『輝いていた』そうです。

やや余談になりますが
父のクラブの司会進行でのアドリブを交えた
ユーモア溢れる語り口やその歌の上手さ
ドラマーとしての才能の片鱗など

「音楽」を昇華し切れなかった母には
恐らく父のその一つ一つ、一瞬一瞬が
とてつもなく魅力的に
感じられた
のだと思います。

父は母を大変リスペクトしており
どんなに母にけなされても
それさえも喜びと感じるほどで

母は父のほとんどの部分を
ある意味下に見ていたものの

父の音楽に対する情熱や才能には
一目置いていました。

それが既に他界した二人が
生涯夫婦で居られた理由だと
わたしは感じています。


自営業を営んでいた父母は
祖母の手術費用や治療費として

親戚や知り合いから借りた
お金の返済のために

生まれたばかりでまだ首も座らない
わたしをおんぶして奔走
したそうです。

時には泣き叫ぶ赤ん坊を
毛布にくるんで床に置き

お客さんとの商談に
当たることもあった

わたしが長女を生んで間もなく母が
申し訳なさそうに悲しそうに

話してくれたことがありました。

だいぶ文字数が多くなったので
この続きは次回としたいと思います。

ここまでお付き合いくださった皆さま
本当に、本当に、ありがとうございました🍀

お伝えしたいことの核心の部分を
次回のこのシリーズで
お伝え出来たらと思います💗

マイペースで
わたしなりに 一歩一歩🐾

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