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『読んだ本の内容を忘れる』という題名の本の内容さえも忘れる


正直、この話はタイトルで完結している。

もちろん『読んだ本の内容を忘れる』なんて本はないが、とにかく言いたいことは、読んだ本の内容を忘れるのである。

これは、子供の頃から感じていた永遠のテーマであり、今の今まで何一つ進展してこなかった未解決事件でもある。これが刑事事件であれば、そろそろ時効を迎えるだろう。遺族も呆れ返る程の進展のなさである。

曲がりなりにも小さい頃から書物に触れる機会は多かった。
図書室では「かいけつゾロリ」や「ズッコケ三人組」を読み漁り、高校生になると東野圭吾や伊坂幸太郎など小説を読むようになり、社会人になってからは新書や自己啓発本も手に取るようになった。


しかし今、これらの本の紹介をしてくださいと言われても、絶対にできない。断言する。
子供の頃の記憶は元より、今年読んだ本の記憶さえも曖昧だ。あらすじを読んでようやく「あー…」となる程度で、だからといって、それをこますじ(細筋)に辿ることはできない。

例えば、小説であれば、帯に書いてある程度のことは語れるかもしれない。「どんでん返し」か「伏線がすごい」か「泣ける」のどれかである。僕が読む小説は、大体この3パターンで構成されるので、どれかを言っておけば当たるだろう。

例えば、新書であれば、斎藤孝の『語彙力こそが教養である』という本を読んで、今その内容で覚えていることといえば「語彙力こそが教養だよなあ」ということだし、堀江貴文の『99%の会社はいらない』という本を読んで、覚えていることは「本当に必要なのは1%くらいの会社なんだな」ということである。
それっぽっちの内容しか覚えていないのだ。


恥ずかしいことにアウトプットを全くしてこなかったことが原因である。メモに残したりブログに記録したり、始めてはみたものの長続きしなかった。好きなフレーズや共感できる文章も、読書中ないしは読後の感動の鮮度を大事にしたい気持ちがあった。それをジップロックで保存したところで、時が経過してから味わう感覚の鮮度は落ちているだろうと勝手に思い込んでいた。
カッコ良く言ってみたが、ただめんどくさかっただけである。

とにかく、読んだ本の内容は僕の脳みその片隅にすら置くスペースがなかった。立ちションと座ションのメリットとデメリットについてのスペースは用意されているのに、本の置き場がないのはあまりにも残酷である。(おのれ、脳みそめ…)
もはや、「読んだ」とは言えないのではないかと思うくらいである。これまで何百冊と読んだ本も全てが無になって、時間もお金も無駄に消費しただけではないか。
そんなことを思うくらい、読んだ本の内容を覚えていない。


しかし、noteで文章を書き続けているうちに、思ったことがある。
自分でも「こんなスラスラ書ける?」と思うくらい書けてしまうのだ。
これまで、文章をまともに書いた経験などほとんどない。もちろん、小説やエッセイをここまで本気で書いたこともない。
なんでこんなに書けるんだろう。

答えは、僕の脳みその片隅にあった。
よーく見てみると、僅かなスペースに小さく小さく小さく積まれた本の山がそこにあった。
それは、単なる本のあらすじを思い起こすために存在しているのではない。
自然と身体に染み付いた文体や文調、リズム、語彙や言い回し。
「カッコいい」「深い」「ダサい」「ほろ苦い」「エモい」「口に出してみたい」
何重にも上書きされた、文章に対する何かしらの感情。
言葉にすることは簡単でないけれど、文字に起こすことで、これまでの経験が確実に活きて、一つ一つの言葉に宿る。
その塊は、誰にも真似することのできない、僕だけの文章として生まれ変わるのだ。


今日も本屋さんに行って、本を見繕う。
何がいいかと選ぶ棚の中に、『読んだ本の内容を忘れる』という本がある。
「お」となり、僕は思わず手に取ってしまう。

パラパラとめくり、内容を流し読む。
首を傾げる。

「うーん、やっぱり…」

そう、とにかく、読んだ本の内容を忘れるのである。タイトルに帰結。

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