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「世間とは何か」

オンライン哲学対話「世間とは何か」
2020年5月1日(金)開催

                  

                            文:杉原あやの

 コロナウイルスの影響により、なかなか対面での哲学対話が難しくなり、オンラインZOOMでの哲学対話を実験的に試みました。
 てつがく屋主催によるオンライン哲学対話は初めてでしたから、参加費を頂かない実験的な試みとしました。
 オンラインでの哲学対話では、対面と違ってどのような点に注意し、準備をしたかなどは、別の記事に譲ることにして、ここでは、対話の内容について振り返りたいと思います。

 さて今回のテーマは「世間とは何か」でした。ちょうど新型コロナウイルスの影響によって、改めて「世間」という存在(?)を感じていた方もおられたのではないでしょうか。
 参加者は10名程度でした。県を超えて参加者が集ったと思います。そのなかで交わされた意見を幾らかご紹介したいと思います。


「世間」についての印象や考え

・ニュースで言っている漠然とした雰囲気。
・最大公約数の多数者の価値観であり「顔が無い」。
・世間と言っても、辿って行ったら結局は「誰か」の意見。
・村社会的なもの。そぐわないと村八分になるようなもの。

上記のように「世間」について、それぞれの印象や意見が出てきました。

 仮に「世間」が多数者の価値観だと考えてみます。「世間」といった掴み所のなさそうなものが、元を辿れば「誰か」あるいは「誰か達」の意見に過ぎないのであれば、なぜ、その意見が多数者の価値観に変化するのでしょうか。その「誰か」の意見が、多数者に支持されうる何かを含んでいたのでしょうか?だとしたら、多数者の価値観になる意見には一体どんな特徴があるのでしょうか?更なる疑問が湧いてきます。


「世間」と倫理感(道徳的価値判断)

 「世間」は何らかの倫理観を含んだものとして現れてくるのではないか。そして、「世間」を自らに取り込み他律的に自分を罰する機能を果たしているのではないか、という意見がありました。それは例えば、自分のやりたいことがあっても、あとで世間からバッシングを受けるのではないかと思うと、辞めておこうといった具合のものです。
 それから、親や大人が子供たちに、やってはならないことを教えるときに、「他の人(世間)に怒られるから」ということを理由にしてはいないだろうか、というものです。それは自律した道徳観ではなく、他律的な道徳観です。そして、この時作用しているのは「世間」なのではないか、という意見でした。


「世間」と「社会」

 私たちが普段何気なく区別して使っている言葉には、何らかの前提が隠れているのかもしれません。何故、言葉を使い分けるのかを考えてみると、新しい発見があるかもしれません。

 「世間からの圧力を受ける」ということもあれば「ビジネスなどで世間を利用する」ということもあるのではないか。そのような意見から「世間」という言葉の使い方について対話がされました。
 
 そこで生じてきた意見には次のようなものがありました。

・受動的には「世間」という言葉を使うけれど、能動的に自らアプローチするときには「社会」という言葉を使うのではないか。→受動的なものの例として同調圧力などは「世間」と言い、能動的なものの例としては社会貢献など。

・「世間」と「社会」は、確かに違っているように思える。「社会」は「社会科学」という学術分野があったり、もう少し客観的で理論的なものを含んでいるように思う。対して、「世間」という言葉は少し違う。

・社会には規範(法など)があるが、対して、世間は情動的な側面があり、恥に訴えかけてくる。

 別の方が、別のタイミングで「世間というのは、私にとっては、もっと生々しいものである感覚」だと言われたのですが、この意見を振り返ってみても、社会が生々しいというよりも、世間が生々しいものとして現れてくると言ったほうがしっくりくるような気がしました。


「世間」と「私」

 「世間」の中に自分が含まれていると考える方と、自分は「世間」の外にいると考える方がいました。後者の方の意見では、「世間」は常に自分に「対するもの」として現れてくるというものがありました。

 面白い意見として、自分の価値観と合わないものは「世間」となり、自分の価値観と合うものは「仲間」だと感じられるというものがありました。


情報媒体と「世間」

 次のような意見がありました。

 ・元々地理的なものから世間が形成されていたのではないかと思う。今、ネットのSNSなどを見ていると罵倒の言葉が溢れているように見える。「世間」というのは、どちらかというと「罵倒しがちなもの」として形成されているのでないか。

 ・新聞やテレビを見ている人、ネットを見ている人との間で、差があるように思う。情報を得る媒体によって「世間」が変わってくるのではないか。

 ・価値観が多様化し、「世間」が多重化しているのではないか。

・「世間」というと、公的機関やメディアが言っていることだというイメージがあるが、実際に自分の関わっている知人たちと、そうした媒体の醸し出している雰囲気との間に、温度差がある。

 ネット社会の話は意外と少なかったように思います。今回の新型コロナウイルスによる影響で、筆者個人が、生活の中で最も変わったのはインターネットとの付き合い方でした。ネット社会で形成される「世間」があるとしたら、それはどういった特徴を持ったものなのか、またネットユーザーとネットを見ない人との間で「世間」の捉え方や生活にどういう影響があるのか、気になっています。


「世間」は幻想か?

 「世間」という掴み所がなさそうな不可思議な存在、いや、それはそもそも本当に存在する何モノかなのでしょうか。仮に「世間」は実は存在しないのだとしても、私たちは「世間」の影響を受けていると「感じる」のではないでしょうか。「世間」の「存在」に関わりそうな皆さんの意見をあげてみます。

・世間というのは、あくまで各人が自ら創り上げた自分の「世間」だから、人によって「世間」は違う。客観的「世間」はないと思う。→「世間」とは「自分」である。

・「世間」と「私」を一緒にして考えるべきではない。「自己」それ自体が「世間」ではないと思う。確かに「自己」が創り上げるとも言えるけれど、「世間」は何らかの客体ではないか。


「世間」って必要ですか?

 対話の中で、とても興味深い問いの形を頂きました。それは「世間は必要か?」というものでした。このような問いの中で「世間」のなかに、何か培ってきた文化や伝統、アイデンティティを見出そうとする意見が出てきたように思います。

・内面化された「世間」は、忖度や自粛、アイデンティティに関わるものとしてあるのではないか。

・「世間」というものを抜きにして「自分」の存在を語れるだろうか・・・。
もしも、「世間」というものが日本人に特有の何かだとしたら・・・。それはアイデンティティのようなところもあり、私たちのなかに深く根付いているものなのではないか。「世間」という実体はないのだけれど、「世間」という薄皮のようなものがあって、それと「自己像」とを行き来しながら、自分の存在を確認することができているのではないか。

・「世間」には、色んな人同士が作って「受け継いできた共同作品」のような側面があるのではないか。

・「世間」はみんなの「共同作品」だというのは、思い込みではないだろうか。けれども、そう思い込むことで、安心感がある。「世間」が存在しているということで、みんなで「共有しているものがある」という安心感があるのではないか。

・「世間」は、文字通り、人間関係を調節する役割を果たしているのではないか。



まとめ
 私たちは生きる上で「世間」に左右されるということが往往にしてあるように思います。そして、「世間がどうあるか」ということがありながら、その上で「自分がどうあるか」ということが、常に突きつけられていると思いました。時には「世間」でどう言われるか知っていたとしても(もちろんそれは自分だけが思い込んでいる「世間」かもしれませんが)「自分この私」を見失わないよう、自ら務めて「世間」に対し距離を取るということもあると思います。周りの人の目を気にして、嫌われたり怒られたりしないために、ということや、他の大勢がそうだから、という理由が自分の行為や判断の一番の基準になって良いのだろうか、という疑問も常につきまといます。

 何とも影響力のある「世間」という存在、しかし「世間とは何か」と聞かれると、どんな風に答えられるでしょうか。そこで「世間」とは何かというテーマで一度哲学対話をしてみたいと思いました。

 ここにあえて書き記しておきたい事があります。コロナウイルスの影響でおそらく殆どの方が、「自粛」という事で、普段の生活様式が変化し、何らかの我慢を強いられたり、ストレスを抱えておられる方もおられたかと思います。メディアやネットでのニュースもコロナウイルスの事がほとんどになっていると思います。そうした条件下にありながら、「世間」をテーマにした今回の哲学対話で、現状の社会への不満や愚痴、政権批判、どこかで聞きかじった情報の交換に始終するといったことが一切起こりませんでした。もちろん、個々人では色々な思いを抱えておられたと思います。それでも、この哲学対話の場で、参加者の意見を聞き入れる姿勢と、そこから考える姿勢、そして、問いかけ合う姿勢がありました。このような柔軟に開かれた姿勢というのは、決して当たり前の在り方だとは思っていません。「世間とは何か」というテーマについて誠実に向き合って、一緒に考えてくださった参加者の皆さんが、とても良い哲学対話の時間を作ってくださいました。

改めて、ご参加くださった皆様ありがとうございました。

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