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メディチ家

Medici

メディチ家の起源は謎に包まれています。

一般に、メディチ一族はフィレンツェ近郊のムジェッロの出身で、1046年頃に生まれたポトローネの医者(Medico di Potrone)から始ったといわれています。

メディチの出自の謎は、紋章の謎ともからんでいて、盾に数個の赤い球を配した個性的なメディチ家の紋章の由来については、2つの説があります。

ひとつは、「メディチ(Medici)」の家名が示すように、彼らの祖先は医師([単]medico/[複]medici)または薬種商であり、赤い球は丸薬、あるいは吸い玉(血を吸いだすために用いる丸いガラス玉)を表しているという説です。

もうひとつは、メディチ家をフィレンツェ随一の大富豪にした当の職業、すなわち銀行業(両替商)にちなんで、貨幣、あるいは両替商の秤の分銅を表しているという説です。

家名の本来の意味を考えれば、医師・薬種商の出身で、丸薬を意匠化したと見るのが自然ですが、13世紀以降の医師・薬種商組合の史料にメディチの一族が登録していた形跡はありません。

しかし一方、貨幣または秤の分銅を意匠化したと考えることは、銀行組合(両替商組合)の紋章と比較すると疑問が生じます。

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なぜなら銀行組合の小円板のモチーフは貨幣を意匠化したもので、そこでは小円板はコイン状の平板な形状を示していますが、メディチの紋章では、当初からボリュームゆたかな半球状の球が並べられています。時代が経つと、この半球状の球は立体性を増し、16世紀のパラッツォ・ヴェッキオのヴァザーリの壁画では、完全な円球になっています。

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つまり、メディチ家の紋章は、コイン状の円盤ではなく、円球をモチーフにしているのであり、その点に注目すれば、丸薬(医師・薬種商)を起源とする説が有力になってきます。球の赤い色も本来薬の色であり、貨幣や分銅の色とは無関係です。

もうひとつ興味深いのは円球の数です。

もっとも古い紋章ではその数は11個もありましたが、コジモ・イル・ヴェッキオの時代には8個に、ピエロ・イル・ゴットーゾの時代には7個に、そして、ロレンツォ・イル・マニーフィコの時代以降は6個に減少します。配列のしかたもさまざまです。

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こうした紋章の意匠の変化や自由さの理由はよくわかりませんが、いずれにせよ、メディチの紋章は、きわめてシンプルで、即物的で、古い封建貴族の家紋に特有の寓意性とは無縁で、それ自体で新興市民らしい職業的自負と率直さを表しています。

紋章の赤い球([単]palla/[複]palle)は、やがてフィレンツェの支配者の地位にのしあがったメディチ家の代名詞となり、なにか事が起こると、メディチを支持する人びとは口々に「パッレ、パッレ」と叫んで広場や街路に集まりました。そして、メディチ支持派の市民は「パッレスキ」(球派の意)と呼ばれるようになります。


14世紀後半にフィリーニョ・ディ・コンテ・デ・メディチが書き留めた『備忘録(Libro di memorie)』(1373年)によって、確かなメディチ家の歴史は13世紀から辿ることができますが、繁栄の出発はジョヴァンニ・ディ・ビッチによるメディチ銀行の創設からでしょう。

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その後、ビジネスにおいても順風満帆のメディチ家は、まるで計算したかのように歴代当主のバトンタッチを成功させ、それぞれが個性を発揮して時代の複雑な糸を操っていきます。

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あくまでも共和制の枠の中で、自身は政庁の重職に就くことを避け、陰の支配者としてフィレンツェに君臨したコジモの風貌は、肌の浅黒い地味な商人以外の何者でもありませんでした。そして、75歳まで、つまり期待をかけた孫のロレンツォが15歳になるまで、コジモはメディチ銀行の舵を巧みに取りながら、人文主義による新しいフィレンツェ文化を育てた功績によって、人々から「祖国の父(Pater Patriae)」と呼ばれて敬愛されました。

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1464年のコジモの死後は、息子のピエロがメディチ家の当主になりますが、「ゴットーゾ(痛風病みの)」と呼ばれたほどの病弱で、5年後の1469年に53歳で亡くなります。当主ピエロの手腕のほどを評価するには早く世を去りすぎていますが、メディチ家の屋台骨がしっかりしているうちに「陰の君主」の座を有能な息子ロレンツォに譲り渡したことは、フィレンツェとしても決してマイナスではありませんでした。

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コジモが期待した孫のロレンツォは、その時まだ20歳になったばかりでしたが、賢母ルクレツィア・トルナブオーニに将来の帝王として育てられた若き君主は、とにもかくにもフィレンツェのルネサンス黄金時代を象徴する存在となります。人々はロレンツォを「イル・マニーフィコ(豪華王/偉大王)」という称号で呼んだほどです。実際にはメディチ銀行の業績低下を理由に、経営人としての才能を疑う学者もいますが、偉大な政治家にして 『君主論』の著者であるニッコロ・マキアヴェッリは、政略家としてのロレンツォを高く評価しています。いずれにせよ、ロレンツォの生きた15世紀後半がメディチ家とフィレンツェにとって栄光の時代であったことに変わりはありません。

さらにロレンツォは、自分の死後に訪れるであろうメディチ家の逆境時代を予見して、再びメディチ家がフィレンツェに返り咲くための布石を打っておいたことを知る時、私たちはしたたかな策士としての執念にあらためて敬服させられます。

ロレンツォ豪華王の亡くなった1492年は、世界史の転換期だと言われます。フィレンツェ・ルネサンスの終焉、ヨーロッパにおけるイスラムの最後の拠点グラナダの陥落、コロンブスの新大陸発見から始まる大航海時代の幕開け。ヨーロッパの歴史は、ここから確実に「近代」という大洋に遭ぎ出していくのです。

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ロレンツォ豪華王の後を継いだピエロは、サヴォナローラの登場によって1494年にはフィレンツェを永久追放されたはずでした。

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しかし、死の床にあったロレンツォが必死の画策で次男のジョヴァンニを枢機卿にしておいたお陰で、当時わずかに16歳であった少年枢機卿が、20年後にローマ教皇レオ10世となってメディチ家を再びフィレンツェに復帰させることになります。

16世紀のフィレンツェに舞い戻ってきたメディチ家はもう、かつてのように無冠の帝王では満足しません。

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メディチ家出身の2人目の教皇クレメンス7世は、「ローマ却掠」後、皇帝カール5世と和睦することによってフィレンツェ共和制を終わらせると、庶子であるアレッサンドロを初代フィレンツェ公とします。

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そして、「祖国の父」と呼ばれたコジモの弟脈から歴史舞台に躍り出てくるコジモ1世(Cosimo I de' Medici, 1519-1572年)は、1537年から第2代フィレンツェ公、1569年からは初代トスカーナ大公となってフィレンツェとトスカーナに君臨し、大公家メディチ一族の新しい歴史を書き始めます。

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<メディチ家系図>

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フィレンツェ/Firenze

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