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ジョヴァンニ・デ・メディチ

Giovanni de' Medici

画像1Ritratto di Leone X con i cardinali, Raffaello Sanzio, 1518, Olio su tavola, 155,2×118,9 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 66), Firenze

父ロレンツォ・イル・マニーフィコの才能を継いて子供の頃から英才ぶりを注目された次男ジョヴァンニ(Giovanni di Lorenzo de' Medici, 1475−1521)は、ポリツィアーノやベルナルド・ドヴィツィ(のちのビッビエーナ枢機卿)を家庭教師として恵まれた人文主義教育を受け、7歳で聖職に入りました。

マニーフィコは、早くからジョヴァンニのために各地の修道院長の聖職禄や参事会職を獲得することに異常なほど熱を入れました。教皇インノケンティウス8世と縁戚関係を結ぶことに成功すると(1487年、マニーフィコの娘マッダレーナがインノケンティウス8世の庶子フランチェスケット・チーボと結婚)、直ちにインノケンティウス8世にたいして当時13歳のジョヴァンニの枢機卿昇任を働きかけました。

そして、2人の後押しにより、父の死の1ヵ月前の1492年3月、フィエーゾレのバディアで史上最年少(16歳)の枢機卿として叙任されました。

父の死後、ジョヴァンニはフィレンツェに戻り、しばらく兄ピエロや弟ジュリアーノとメディチ邸で過ごしましたが、1494年11月にメディチ家が追放になると、ペルージャ、ウルビーノ、ミラノを転々とし、さらに1499年には、身の安全をはかるため、従弟ジューリオとともにドイツ、フランドル、フランスの諸都市を旅行しました。

1500年、アレクサンデル6世治下のローマに戻り、現在のマダーマ宮殿に居を構えると、従弟のジューリオ、秘書ベルナルド・ドヴィツィらとともに文人・芸術家や社交仲間に囲まれて、賛沢三昧な生活をおくりました。

1503年、アレクサンデル6世没後(正確にはわずか26日間在位したピウス3世の没後)のコンクラーヴェ(conclave, 教皇選挙会議)では、ユリウス2世擁立のために積極的に動き、兄ピエロの戦死後は、メディチ家の当主として、ユリウス2世の支持を受けてメディチ家復帰運動の中心的存在となりました。

1512年9月、18年ぶりにフィレンツェに戻ったジョヴァンニは、マニーフィコの時代以上に強力なメディチ体制を復活させ、弟ジュリアーノを表に立てながら実質的な統治者として君臨しました。

そして半年後の1513年3月、教皇ユリウス2世が死去すると、コンクラーヴェに参加するためにローマに向かいました。

このコンクラーヴェでは、当初、ジョヴァンニは教皇候補者としてさほど注目されていませんでした。しかし、枢機卿として20年以上の経験を積んでいたし、性格は快活で才知に富み社交的、そしてまだ30代にもかかわらず健康状態が優れない(在位期間が長期に及ばない可能性が高い)ことが幸いして、候補者として急速に浮上しました。

そして1週間の密室でのコンクラーヴェの後、ほとんど買収行為もないまま、レオ10世(在位1513〜21年)として史上最年少(37歳)で217代目の教皇に選出されました。

フィレンツェ市民も、この都市で初めての教皇の誕生に歓喜し、何日間も熱狂的な祝典が続きました。

画像2Ingresso trionfale di Leone X a Firenze, Giorgio Vasari, 1555-1563, Sala di Leone X, Palazzo Vecchio, Firenze

レオ10世の即位は、いうまでもなくメディチ家の歴史において画期的な意義をもつ出来事でした。この教皇登位によって、メディチ家はイタリアとヨーロッパの王侯貴族と肩を並べる一族となり、またフィレンツェと教皇領の両方を支配するイタリア最大の門閥となりました。

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画像4Sala di Leone X, Palazzo Vecchio, Firenze

教皇レオ10世(在位1513〜21年)となったジョヴァンニは、フィレンツェでのメディチ家の統治をローマから操作する陰の権力者としてふるまう一方、教皇領の君主としては前教皇ユリウス2世とはうってかわって妥協的で順応主義的な外交政策により平和を維持しました。

1515年に新しくフランス国王となった野心的なフランソワ1世が再びイタリアに侵攻しミラノを占拠すると、1516年、レオ10世はボローニャに出向いて妥協的な協定を結びました。

そして1519年に神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世が亡くなると、後継者としてフランソワ1世を支持し、スペイン王兼ナポリ王カールが選出されるのを阻止しようとしました。しかし、この工作に失敗し、カール5世が即位すると、逡巡の末にフランソワ1世を見捨て、カール5世と密約を結びました。こうして1521年、カール5世に率いられた軍隊はフランス軍を破り、ミラノは神聖ローマ帝国の支配下に入りました。

それから間もない1521年12月、教皇レオ10世は風邪をこじらせて、46歳の若さで急死しました。

画像17Tomba di papa Leone X, Basilica di Santa Maria sopra Minerva, Roma

レオ10世は、ローマ教会の首長というより、一人の享楽的な世俗君主(大パトロン)として、豪奢な宮廷生活と文化生活を思う存分に謳歌しました。レオ10世は即位すると、祝いに駆けつけた弟ジュリアーノに「神がわれらに教皇位を授け給うた。さあ、おおいに楽しもうではないか」と言ったといいます。

レオ10世は、父マニーフィコ譲りの柔和で社交的な享楽主義者で、子供の頃から贅沢な宮廷生活に骨の髄までつかった貴族主義者、そしてフィレンツェの恵まれた知的環境で理想的な教育を受けた多芸多才な文化人でした。戴冠式の際に建てられた仮設凱旋門のひとつには「かつてウェヌス(愛欲の女神ウェヌスはアレクサンデル6世)が支配し、その後マルス(軍神マルスはユリウス2世)が治め、今やミネルヴァ(学芸の女神ミネルヴァはレオ10世)の時代が来らん」という銘文が掲げられたといいます。

前任者のユリウス2世は、ローマの都市復興とヴァチカン再建に着手し、ミケランジェロ(システィーナ礼拝堂天井画)、ブラマンテ(サン・ピエトロ大聖堂の新築)、ラッファエッロ(署名の間の「アテナイの学堂」)の三大巨匠が競い合って、ローマをイタリア芸術の最前衛の地に一変させました。再建に着手し、ミケランジェロ(システィーナ礼拝堂天井画)、ブラマンテ(サン・ピエトロ大聖堂の新築)、ラッファエッロ(署名の間の「アテナイの学堂」)の三大巨匠が競い合って、ローマをイタリア芸術の最前衛の地に一変させました。

画像6Volta della Cappella Sistina, Michelangelo Buonarroti, 1508-1512, Affresco, 4093×1341 cm, Cappella Sistina, Musei Vaticani, Città del Vaticano

画像7Scuola di Atene, Raffaello Sanzio, 1509-1511 circa, Affresco, 500×770 cm, Musei Vaticani, Città del Vaticano

レオ10世もユリウス2世の後継者として、建築や美術の分野で気前のよい大パトロンとして振舞いました。ただし、レオ時代の美術はパトロンの性格を反映して豪奢さと宮廷的洗練に特徴づけられたものとなりました。

絵画の分野では、レオ10世は若い宮廷芸術家ラッファエッロを特別に寵愛しました。ユリウス2世によってヴァチカン宮殿の壁画作者に抜擢され、ミケランジェロと競い合って頭角をあらわしたラッファエッロは、レオ10世好みの社交的で洗練された人物で、教皇のお抱え画家としてヴァチカン宮殿の装飾事業を独占しました。レオ10世がラッファエッロに依頼した主な仕事は、教皇の公的広間の壁画、システィーナ礼拝堂の側壁に掛ける十枚の大型タペストリーの下絵、そして新しく開設された開廊(loggia, ロッジア)の装飾です。

画像10Stanza dell'Incendio di Borgo, Perugino, Raffaello Sanzio e allievi, 1514-1517, Affresco, Musei Vaticani, Città del Vaticano

画像8Pesca miracolosa, Raffaello Sanzio, 1515-1516, Tempera su cartone, 360×400 cm, Victoria and Albert Museum, Londra, Inghilterra

画像9Arazzi di Raffaello, Bottega di Pieter van Aelst su disegno di Raffaello Sanzio, 1515-1519, Arazzi, Pinacoteca Vaticana, Città del Vaticano

画像11Loggia di Raffaello, 1518-1519, ciclo di affreschi, Città del Vaticano, Musei Vaticani

一方、ミケランジェロとレオ10世は同い年で、子どものころはメディチ邸で生活をともにしたこともありましたが、気難しいミケランジェロの性格をレオ10世は敬遠しました。そのため、レオ10世はミケランジェロにはローマでの仕事は与えず、フィレンツェに派遣して、メディチ家にゆかりの深いサン・ロレンツォ聖堂のファサードや新聖具室などの仕事を任せました。

画像13Modello per la facciata di San Lorenzo, Michelangelo Buonarroti, 1518 circa, Legno, 216x283x50 cm, Casa Buonarroti, Firenze

画像12Sagrestia Nuova, Basilica di San Lorenzo, Firenze

レオ10世の浪費ぶりは「レオは三代の教皇の収入を1人で食いつぶした。先代ユリウスの蓄えた財産と、レオ自身の収入と、次の教皇の分の3人分を」といわれるほどです。

途方もなく贅沢で世俗化されたヴァチカンでの宮廷生活と浪費で、教皇庁は未曾有の財政破綻に陥りました。そしてそれを補うために、莫大な借金、大がかりな聖職売買、免罪符の発行が日常的に行われたため、マルティン・ルターは教皇庁の腐敗と堕落を激しく弾劾し、宗教改革の運動が引き起こされました。


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ヴァチカン美術館/Musei Vaticani

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