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ピエロ・イル・ゴットーゾ

Piero 'il Gottoso' de' Medici

ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ(Piero di Cosimo de' Medici, 1416〜1429年)は、「祖国の父」コジモの長男で、「痛風病み ‘il Gottoso’」というあだ名のとおり若い頃から病弱でした。

画像1Ritratto di Piero il Gottoso, Agnolo Bronzino, Olio su tela, National Gallery, Londra

コジモにはピエロとジョヴァンニという2人の嫡出の息子がいましたが、ジョヴァンニはコジモの死の前年、1463年に42歳で世を去りました。予期せぬ次男の死にコジモは嘆き、コジモは死の床で、自分と同じく痛風に苦しむ長男に、重い責務を残すことになったことを悔いました。弟の死によって、メディチ銀行の経営もピエロの肩にのしかかりました。

残念ながら、病身のピエロは、銀行経営においても政治においても父ほどの器量はもちあわせておりませんでした。

父の死後、ピエロは48歳でメディチ家の当主を継ぎます。名ばかりのものになっていたとはいえ、共和制のフィレンツェでは権力が世襲される保証はありませんでした。コジモの存命中は抑えられていた反メディチの動きがにわかに活発となり、1466年にコジモと親しかったミラノ公フランチェスコ・スフォルツァが亡くなると、反メディチ派はピエロ打倒に動き出しました。

一方のメディチ派も対抗し、市内には一触即発の緊張が高まりましたが、有力者の一人ルーカ・ピッティ(ピッティ宮殿を建設した人物)の寝返りによって反メディチ派は総崩れとなりました。こうしてピエ口は何とか政治危機を乗り切り、メディチ家の支配体制が確立されました。

当主になってわずか5年後の1469年12月、ピエ口は53歳で世を去りました。ピエロの手腕のほどを評価するには早く世を去りすぎていますが、メディチ家の屋台骨がしっかりしているうちに、有能な息子ロレンツォに譲り渡したことは、フィレンツェにとっても決してマイナスではありませんでした。

サン・ロレンツォ聖堂旧聖具室にある墓廟は、貴族的な趣味の持ち主だったピエロにふさわしい豪華なものです。

画像2Tomba di Piero e Giovanni de' Medici, Andrea del Verocchio, Sagrestia Vecchia, Basilica di San Lorenzo, Firenze

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ピエロに政治影響力はありませんでしたが、ベネッツォ・ゴッツォリ、サンドロ・ボッティチェッリを見出すなどのパトロン活動は活発でした。また豪奢な書斎(scrittoio)をメディチ邸の2階に作らせるなど、コレクターとしても知られています。

1444年にルクレツィア・トルナブオーニと結婚し、6人の子をもうけ、4人が成人しました。


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サン・ロレンツォ聖堂/Basilica di San Lorenzo

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