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アレッサンドロ・イル・モーロ

Alessandro 'il Moro' de' Medici

1530年8月に「フィレンツェ包囲戦」が皇帝・教皇軍の勝利で終わると、クレメンス7世はメディチ家のフィレンツェへの帰還を慎重に行いました。

まず側近の枢機卿を送り込み、国家体制を1527年以前の状態に戻したうえで、翌1531年、20歳になっていたアレッサンドロ(Alessandro
de' Medici, 1511-1537年)を再び統治者としてフィレンツェに復帰させました。

画像1Ritratto di Alessandro de' Medici, Giorgio Vasari, 1534, Olio su tavola, 157x114 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 83), Firenze

アレッサンドロは、翌1532年には、皇帝によってメディチ家として初めて「フィレンツェ公」の称号を与えられました(彼はすでに1522年にアブルッツォ地方の「ペンネ公」の称号を皇帝より得ていました)。


アレッサンドロは当初、教皇クレメンス7世の意向にしたがい、穏健な統治を行ないました。

同年4月、新憲法(Oridinazioni)を発布し、旧来の議会にかわって新しく「二百人議会」(Consiglio dei Dugento)と二百人議会から選ばれた48人の議員からなる「四十八人議会」(Consiglio di Quarantotto。のちに元老院(Senato)と改称。)を創設し、政府として「最高執政院」(Consigliere。公自身ないし代理人と、公が任命する3ヵ月任期の顧間4人で構成)を設置しました。最終的な決定権は公自身が握っていましたが、この新憲法が、以後200年にわたるメディチ支配体制の法的基礎となりました。

しかし、クレメンス7世が死去すると、アレッサンドロは暴君としての本性を露わにしました。

有事の際に鳴らされ、共和国の象徴となっていた政庁舎の大鐘(ヴァッカ(Vacca, 雌牛)の仇名で親しまれていた)を破壊して貨幣や武器に鋳直させ、市民の所有する武器を没収し、また他の君主都市と同様に市内に巨大な城塞フォルテッツァ・ダ・バッソ(Fortezza da Basso)を建設しはじめました。

画像7Fortezza da Basso, Firenze

それに加えて、アレッサンドロは飽くなき欲望につき動かされた放蕩者として知られ、お忍びで市内を徘徊しては性的欲望のおもむくままに多くの女性をもてあそびました。


アレッサンドロの専制君主化に不満をつのらせた有力貴族(ストロッツィ、ルチェッライ、サルヴィアーティ、リドルフィ)や亡命者たちは、アレッサンドロに深い恨みを抱くイッポーリトと接触して、アレッサンドロの失脚をもくろみました。

画像2Ritratto di Ippolito de' Medici, Tiziano Vecellio, 1532-1534 circa, Olio su tela, 139×107 cm, Galleria Palatina, Firenze

ヌムール公ジュリアーノの庶子イッポーリト・デ・メディチ(Ippolito de' Medici, 1511-35年)は、クレメンス7世の教皇登位後、アレッサンドロとともにフィレンツェにおけるメディチ家の当主とされましたが、その後クレメンス7世が自分の庶子であるアレッサンドロを優遇してフィレンツェの統治者と定め、イッポーリトを意に反して聖職につかせたため(1529年に枢機卿に任命)、アレッサンドロに対する嫉妬と敵意を深めていました。

野心家のイッポーリトはアレッサンドロの打倒を決意し、皇帝カール5世に書状でアレッサンドロの暴君ぶりを訴えて、罷免を要求しました。そして、皇帝に直訴するために旅に出ましたが、その途中、1535年8月、ラツィオ南部のイトリでマラリアにかかって急死してしまいます。イッポーリトの突然の死は、当時、アレッサンドロの指図による毒殺ではないかとささやかれました。イッポーリトは、ローマのサン・ロレンツォ・イン・ダマソ聖堂(Basilica di San Lorenzo in Damaso)に埋葬されました。


一方皇帝カール5世は、イッポーリトや亡命貴族らの訴えを退けてアレッサンドロを支持し、教皇クレメンス7世が望んでいたマルガレーテとアレッサンドロの結婚を実現させ、その支配の正統性を認めました。結婚式は1536年にナポリで行なわれ、カール5世自身もマルガレーテとともにフィレンツェに入城し、盛大な祝典に迎えられました。

この結婚によってアレッサンドロの支配は揺るぎないものになったかと思われました。しかし、この結婚のわずか数ヵ月後、アレッサンドロは、同族のロレンザッチョことロレンツィーノ・デ・メディチによって暗殺されました。


画像3Scuola fiorentina, medaglia di Lorenzino de' Medici

ロレンザッチョ(Lorenzino de' Medici, 1514-48年)は、弟脈のピエルフランチェスコ・イル・ジョーヴァネの息子(ロレンツォ・イル・ポポラーノの孫)で、以前滞在していたローマでは、酒に酔ってコンスタンティヌスの凱旋門の石像を壊したため、クレメンス7世から退去を命じられるという前歴の持ち主でした。

フィレンツェに戻ってから、アレッサンドロとロレンザッチョはすぐに親しくなり、夜な夜な街に繰り出しては酒を飲んで女を買い、時には女装したり、ベッドをともにしたりしたこともありました。2人は不品行の限りをつくしたため、悪評を高めました。

アレッサンドロはロレンザッチョに好意を抱いていましたが、ロレンザッチョの方はアレッサンドロの権力を心中ではうらやみ、暴君殺害という英雄的な行為を行う自分の姿を空想していました。そして、それを実行にうつしました。

ロレンザッチョは、自分の従姉の美しい人妻カテリーナ・ジノーリとアレッサンドロが一夜を過ごすお膳立てをしようともちかけました。1537年1月5日の夜、喜んだアレッサンドロはロレンザッチョの屋敷に入り、服を脱いで寝室でカテリーナを待ちました。ところが、寝入ったころを見計らって現れたロレンザッチョと殺し屋により、短剣で刺殺されてしまいました。

画像4L'assassinio del duca Alessandro

ロレンザッチョはその後、ボローニャへ逃亡し、トルコやフランスなどで亡命生活を送りました。その間に著した『弁明(Apologia)』では、自分をカ工サルを殺害したブルートゥスにたとえ、自らの行為の正当性を訴えています。

その後ヴェネツィアに落ち着きましたが、アレッサンドロ暗殺から11年後の1548年、跡を継いでフィレンツェ公となったコジモ1世の送った刺客によって暗殺されました。


アレッサンドロには4歳になるジューリオという庶子がいましたが、後継者として選ばれたのは、弟脈の「黒隊長」ジョヴァンニとロレンツォ・イル・マニーフィコの孫娘マリーア・サルヴィアーティとの間に生まれたコジモ・デ・メディチ(Cosimo I de' Medici, 1519-74年)という、当時17歳の若者でした。

画像5Ritratto di Cosimo I de' Medici, Pontormo, 1538 circa, Tempera su tavola, 100,9×77,0 cm

祖国のために戦って命を落とした英雄として民衆に人気のあった「黒隊長」と、フィレンツェの黄金時代を築いたイル・マニーフィコの2人につながるコジモは、血筋として申し分ありませんでした。さらに当時はトレッビオの別荘(Villa medicea del Trebbio)で暮らしていて、民衆から憎まれていたアレッサンドロとの接触もなく、イメージとして汚れてもいませんでした。

画像6Villa medicea del Trebbio, Toscana

こうして、コジモ・イル・ヴェッキオから始まったメディチ家兄脈のフィレンツェ支配は、アレッサンドロの暗殺により、突然終局を迎えることになりました。


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フィレンツェ/Firenze

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