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ロレンツォ・イル・マニーフィコ

Lorenzo 'il Magnifico' de' Medici

ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ(Lorenzo di Piero de' Medici, 1449〜1492年)は、「痛風病みの」ピエロの長男で、フィレンツェのルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主です。

P1130275 3のコピー2Ritratto di Lorenzo il Magnifico, Giorgio Vasari, 1534 circa, Olio su tavola, 90 x 72 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 83), Firenze

コジモが期待した孫のロレンツォが当主になったのは1469年。その時まだ20歳になったばかりでしたが、賢母ルクレツィア・トルナブオーニに将来の帝王に育てられた若き君主は、とにもかくにもフィレンツェ黄金時代を象徴する存在となりました。

子どもの頃から古典の教養を身につけただけでなく、一国の君主にふさわしい宮廷教育を授けられた彼は、病弱な父の名代として各地に派遣されるなど、政治的な経験も早くから積んでいました。一方、美貌ではありませんでしたが、弁舌巧みな伊達男としても知られ、乗馬や恋愛に青春を謳歌する若者でした。

フィレンツェの実質的な君主となったロレンツォは、政治家として祖父のコジモに劣らない器量の持ち主であることをすぐに示しました。1470年、反メディチ派が隣町のプラートで起こした反乱を鎮圧したのを機に、政府と議会を意のままに動かす体制を築いてしまいました。

ロレンツォがフィレンツェで権力基盤を着々と固めつつあった1471年、教皇シクストゥス4世が即位しました。きわめて野心的なシクストゥス4世は、イーモラ(ボローニャ県にあるコムーネ)を買収して甥(実子ともいわれる)のジローラモ・リアーリオに領地として与え、ミラノ公庶出の娘カテリーナ・スフォルツァと結婚させました。つながりの深いメディチ銀行が資金融資を求められましたが、イーモラは戦略上の要地であり、フィレンツェの安全にとって脅威となるため、ロレンツォがそれを拒否したため、教皇はメディチ銀行のライバルであるフィレンツェのパッツィ銀行に改めて融資を依頼しました。

3年後、教皇のもう一人の甥がフィレンツェ領の隣町に反乱鎮圧の名目で侵攻し、フィレンツェも軍を派遣したため、両者の緊張は一気に高まりました。ロレンツォが教皇国家の勢力拡大に対抗してヴェネツィア、ミラノと同盟を結ぶと、教皇もナポリ王国と同盟しました。また報復として、メディチ銀行がもっていた教皇庁での特権を取り上げ、パッツィ銀行に与え、パッツィ家に関係の深い人物をフィレンツェ支配下のピサ大司教に任命しました。

パッツィ家は先祖が第一次十字軍に参加した由緒ある貴族の家柄でしたが、当時は新参者のメディチ家に権力においても銀行家としても後れをとっていました。したがってこれはパッツィ家にとって積年の恨みを晴らす絶好の機会でした。しかしロレンツォはピサ大司教の入国を何年も拒みつづけたばかりか、パッツィ家の遺産相続にも介入しました。

これに怒りを募らせたフランチェスコ・デ・パッツィはジローラモ・リアーリオと共謀し、ロレンツォとジュリアーノのメディチ兄弟の暗殺を決意しました。計画にはピサ大司教と教皇軍の傭兵隊長も参加し、ロレンツォを憎んでいた教皇も暗黙の了解を与えました。

1478年4月26日の「血の日曜日」に、大聖堂でのミサの最中、聖体を捧げる鐘を合図にパッツィ家を中心とする暗殺者がロレンツォとジュリアーノのメディチ兄弟を襲いました。しかし弟ジュリアーノは殺害したものの、ロレンツォには首に傷を負わせただけで、聖具室に逃げられてしまいました。計画では暗殺と同時に政庁舎を占拠して民衆に暴動を促すことになっていましたが、それにも失敗しました。

ジュリアーノ殺害の報を聞いた民衆の怒りは暗殺者たちに向けられ、その日のうちに捕らえられました。首謀者のフランチェスコ・デ・パッツィとピサ大司教は衣服をはがされ、首に縄をかけられて政庁舎の窓から吊されました。その後もロレンツォの報復はすさまじく、陰謀に加担したことを理由に処刑されたものは100人近くに上ったといわれます。パッツィ家の財産は没収され、家門は断絶されました。

こうして「パッツィ家の陰謀」は国内的には片づきましたが、陰の首謀者である教皇シクストゥス4世のメディチ家への憎悪をますます募らせることになりました。6月、彼はロレンツォとフィレンツェ政府を破門し、フィレンツェに宣戦を布告しました。フィレンツェは、教皇やナポリ王を相手に、2年近くにわたる戦いを強いられました。

窮地に追い込まれたロレンツォは、単身ナポリへ乗り込んでフェルディナンド1世と直接交渉する決心をしました。1479年12月に船でピサを出発した彼はおよそ2か月半ナポリに滞在し、時間と金がかかりましたが、辛抱強く交渉を続けました。そして、決してフィレンツェに有利なものではありませんでしたが、ついに停戦条約の締結にこぎ着けたのでした。

ロレンツォは祖父コジモが帰還したとき以上の熱狂で市民に迎えられました。彼はただちにバリーア(特別委員会)を設置し、市政府のメンバーを指名する機関として「七十人委員会」を設立しました。メディチ派で占められたこの委員会の任期は実質的に無期限で、こうして共和制フィレンツェにおけるメディチ家の支配体制はさらに強化されました。

その1年後、1480年には教皇庁とのあいだにも和平が成立しました(ロレンツォは次期教皇インノケンティウス8世とは友好的な関係を結び、次女をその息子と結婚させています)。各国が領土拡大の野心をもち、謀略渦巻くイタリアにおいて、五大国間の勢力が均衡を保ち、平和が維持されるように努めた彼の外交手腕は高く評価され、イタリアの「天秤の針」という名声を得ました。

ロレンツォ・イル・マニーフィコ「il Manifico(豪華王/偉大王)」が君臨した時代のフィレンツェでは、ヴェロッキオ、ボッティチェッリ、レオナルドなど美術史上の巨匠たちが活躍し、若き日のミケランジェロもロレンツォが設立した「サン・マルコ庭園の彫刻学校」で学んでいました。また彼自身もメンバーだったプラトン・アカデミーを舞台にマルシリオ・フィチーノ、ピコ・デッラ・ミランドラなどの哲学者が研究に励んでいました。まさにルネサンスの最盛期であり、古代アテネ、ルイ14世時代のパリなどと並んで芸術文化の「黄金時代」とされています。

しかしこの黄金時代も長くは続きませんでした。ロレンツォには父ピエロと同じ痛風の持病がありましたが、病は年とともに重くなっていき、ついに1492年4月、家族や親しい友人たちに看取られながらカレッジの別荘で世を去ってしまいました。43歳の若さでした。遺体は弟ジュリアーノの眠るサン・ロレンツォ聖堂旧聖具室に埋葬されました(1559年にミケランジェロ設計の新聖具室に移され、聖母子像の下に重ねて置かれました)。

画像2Tomba di Lorenzo il Magnifico e Giuliano de' Medici

その2年前から、サン・マルコ修道院のドメニコ会修道士サヴォナローラが、メディチ家支配下におけるフィレンツェ人の堕落した生活を厳しく弾劾していました。ロレンツォは自分を糾弾するサヴォナローラに寛容で、彼がサン・マルコ修道院の院長になることを容認しました。サヴォナローラはロレンツォの臨終に立ち会い、最後の祝福を与えました。


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メディチ家礼拝堂/Cappelle medicee

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