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信について

電子書籍の内容解説からはいったん離れ、エッセイ風に思いつくままつづっていきたいと思います。

の大切さはよく言われることですが、

の怖さも言われるところですね。

戦中の日本は天皇や国家を崇拝し、信じ切ることで、客観的情勢や自己分析ができず、神風によって勝利するとの思い込みにより、想像を超えた惨禍と地獄に向かっていきました。

また、信に至上の価値を置く宗教が、盲信による独自の教義の絶対化により善良な人々を狂気に向かわせることがあることも、宗教に深く関わろうとしない現代日本の多くの人々は知っています。

あらぬ方向に突き進む信とは実におそろしいものがあります。

現代人、特に戦後の日本人が信というものを忌避するようになったのは、戦争や宗教から信のおそろしさを肌身で感じたからでしょう。

批判的態度、科学的実証性、客観的分析といったものが、まともな社会人のあり方となりました。

当然ですね。

盲信はおそろしいです。

ただし、

やっぱり宗教的、哲学的思考をしてしまう(^_^;)自分としては、

だだし、

と思ってしまうのですね。

それは自体は、やはり大事なものです。

があるから頑張れます。

明るくなれます。

慌てることがなく、余裕が出て、ゆったりとした気持ちになります。

信のパワー

は確かにあります。

この信のパワーを

自分に向ければ自信となり、

他者に向ければ信頼となり、

神や仏、もしくは神仏に等しいとされる偉人に向けられれば信仰となるのでしょう。

「え?それが盲信狂信になるんじゃないの?」

と思われた方

そのとおりです。上記したとおりですからね。

だから、やっぱり

「自分や他人や神仏を信ずるなんて、やりすぎっしょ。やばいっしょ」

って意識においても無意識においても思ってしまうのです。よ、ね?

自分も同じく^^

しかし。。←またかい(笑)

信はやはり量子論的視点からもかなり根源的パワーのようです。

素粒子は、波、つまりエネルギー波であり、どこでどういった粒子になるかは確率でしかない。粒子になるのは、観測されたときであり、このときに現象化するんですね。観測とは人の思念エネルギーでありますから、思念エネルギーがあって粒子つまり物質が生じるということです。

量子論は最先端科学なのに、それが描く世界はすごいものです。現象世界の常識は通用しません。あの世の世界そのままのような世界観です。でもそれが現象界の根源の世界でもあるのですから、たまげます(^_^;)

で、思念エネルギーの最たるものは、

やはり、

信のエネルギー

ですよね。

信ずることはすでに受けたりと思え。

汝の信ずるとおりとなれ。

信ずれば叶う。

といった金言がありますが、

これは最先端科学の量子論において立証された感があります。

思念エネルギーとしての信のエネルギー

は、根源的エネルギーとして素粒子に影響を与え、現象に影響を与えるということでしょう。

では、盲信狂信にならないためにどうするか?

現象としての自分

現象としての他人

現象としての社会、国家、世界

現象としての現人神

を信じてはいけません。

残念ながら。。。

所詮、それらは諸行無常、諸法無我、一切皆空なる仮のすがた。

完全ではない。

完全ではなけれど、現象化しているから具体的な利便性は素晴らしいものがある。

でも、やはり完全完璧なる純粋なエネルギーではない。。。

仏教もこういうことを言いたいんだと思います。

自分も

他人も

社会も世界も国家も、

また、神仏に等しいとされる偉人聖人や現人神とされる現に生きている宗教の教祖も

そして、大宇宙を統べる神仏も

現象ではなく、その根源に完全なる完璧なる比較不可能な至上の絶対的な価値があると信ずること。

それが、

盲信狂信でななく、批判的態度、科学的実証性、客観的分析をともなった

確固とした、不動の、自信、信頼、信仰

につながるのではないでしょうか。







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