見出し画像

広島ストリートスナップ

広島市をストリートスナップ。
ストリートスナップといえばモノクロ、ロバート・フランク的なビートニクな写真を撮る、そう気分はジャック・ケルアックの「路上」の世界。
なんせせっかくの有給を使って町中に出てきたんだから、時給換算くらいには満喫しなくてわ。
そんな竹中平蔵的資本主義経済脳にて広島市の真ん中に佇む。
いかんいかん、もっと写真はアナーキーじゃないと。

やはり原爆ドームは外せない。
市民球場があった頃の昭和的な喧騒がなくなった周辺の変化にも関わらず、原爆ドームだけは相変わらず物悲しい。
空虚な空洞だらけの朽ち果てた姿は、観光客の醸し出す平和だからこその「観光」にひんやり冷たい風をそそぐ。


一瞬の静寂は一瞬でこの姿に成り果てた原爆ドームの前でしか感じられない。
まさに一瞬で、写真を撮るその時間よりも早く。
無人の芝生には白いきのこが生えていた。


原爆ドームのすぐ横は中国地方屈指の「都会」である。
平和の象徴の横には平和だからこそできる雑念とした消費の場が屹立している。
世界中から押し寄せる人々が一点に集まってくるその様子は、さながら生命力の一筋縄には語れない滑稽さと必然がある。
広島市でしか感じられないアメーバ的な無秩序さでもある。


死ぬほど運転しづらい街中の雑踏。
路面電車と自動車が並走するこのメインストリートは、昭和的な喧騒の最後の踏ん張りのようだ。
経済合理性が行き着く先はコピーのコピーのモノクロの世界。
滅菌処理された無臭な都市になりそうでならない広島の町はどこかオタフクソース臭いのである。


すれ違う人々、平日だというのにこの人だかり。
田舎者には許容量を超えたストレスの洪水。
田舎者が思うに、都会の人はあれだけの人間の摩擦力の中でも平然と自己を保って歩いているのが不思議でならない。
自分の自分たる所以を剥ぎ取っていくかのような激流。
僕の生活圏は田舎から出ることはできないようだ。
我家の庭には得体のしれない獣の糞が転がっている。


しかし広島辺りの都会度であれば、東京や大阪のような人間本来の感覚を完全に失った人の群れでもなく、雑踏と喧騒の狭間に息の吸えそうなタイミングはある。
広島の町はそんなリズムがまだ残っている。
渋谷駅から出ることができなくて呆然としたあの瞬間、僕は時代とともに生きることを辞めたのである。
広島にはまだ異邦人がカメラで掠め取れるくらいの光が宿っている。
東京を撮るには東京で暮らさなければならない。
森山大道然り。


ストリートスナップはモノクロに限る。
ロバート・フランクのようなニヒリズムとウィリアム・クラインのジャーナリスティックなアート感覚の間を揺れ動くのがストリートスナップであり、徹底的に重要なのは時間である。
ストリートスナップは偶然性の中に宿る必然であり、それは時間がすべてを物語る。
故に色は後からやってきても良い。
時間的な拘束力が一瞬でパッと光るような写真、色は見る人の脳が勝手に補完してくれる。


都市を撮るのはグーグルマップに任せておけば良いし、人を撮るのはiPhoneに任せておけば良い。
ストリートという喧騒の空気感はカメラにしか撮れないと思っている。
都市という非人間的な空間には、そこに適応した者と適応しようとしている者と贖おうとする者が織りなす雑踏の響きがある。
そこにリンクするには、恣意性の一歩手前の意識段階でなければならない。
超自我的な都市の構造だからこそ、そこには呪術的な感覚が必要になってくるのだ。
といってもカメラで適当に撮るだけ、iPhoneでは駄目だ。
明確な意志を消去法で導くカメラというツールだからこそできること、最近少なくなってきたそれは広島の町にひっそりと宿っている。


この記事が参加している募集

カメラのたのしみ方

サポートいただきましたら、すべてフィルム購入と現像代に使わせていただきます。POTRA高いよね・・・