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バタイユとエモい写真

最近流行りのエモい写真について考えている。
「エモい」という新しい概念がどこからか生まれ、一気に浸透し、そして消費され、いずれは「オワコン」として廃れていくのだろうか?なんていう写真だけではない現象についてだ。
ちょうどジョルジュ・バタイユについて勉強していた。
バタイユの難解な思想は、とてつもなく暴力的に簡単に言えば「現代人の思考回路は非人間的だ!」ということである。
バタイユは「眼球譚」や「エロティシズム」といった著作が有名であり、なにかオカルト的な人物であるというイメージであったが、バタイユについて学んでみるとオカルト的な嗜好こそ本来の人間らしさが垣間見えると思うのであった。
そんなバタイユとエモい写真がどうつながるのだろうか?
それはエモい写真が人々に認識される過程を見ていくことで、現代人の感覚が如何に社会的な枠組みにより規定されているのかが判明するのである。

現代人の感覚

少々長いが、バタイユの現代人の感覚批判につながる部分を引用してみる。
バタイユは「自分はいつも自己の意識と統一されている」という現代人の「意識」観を批判している。
「自分は自分だ」と思われるかもしれないが、その自分とは今までの人生と、そしてこれからも歩み続けるだろうという時間的拘束下にある。
そして時間的拘束は、自分の行動を自己と結びつけるために「到達し、完了する」という期待に支えられて初めて行動が可能となる・・・そんな人間になってしまう。
現代で言えばタイパやコスパ、損得勘定だと思えばわかりやすい。
これをバタイユは「企図という観念」といった。

現代は「理性と科学」の時代であり、近代以前は宗教的観念に縛られていたが、そのすべてがこの「企図の観念」=目指したものに到達しよう=そうすることで全体となろう、完了しようとしている。そうでなければ、「意味」も「価値」もないと人間は思い込んでいる。
この観念の根底にあるのは、「私はいつも私として存在している」という一種の信仰なのだ。

そしてそんな「私」を主体とし、世界のあらゆる物を「対象」としている。
その対象は言葉によって枠組みを与えられ、客体としてのそれは「私はいつも私」という観念のもと、言葉によりカテゴライズされることで存在しているのだ。
故に世界=事象とは言葉で言い表せるものなのである。

バタイユはこの言葉の作用を「体系的な作動」が法則化し、その法的な効力が決定力を持つとした。
そしてその法則が社会に受け入れられると「必然的な法」となっていくのだ。
現代人は世界を「言い表しうるもの」の領域にしか考えられなくなっているのである。
主体と対象が完全に区切られるのだ。
これは言語を理解していない子供の時の感覚を思い起こしてもらうと、おわかりいただけるのではなかろうか。
子供の一見不自然な言動や感覚は、主体と対象の関係が曖昧であるから起こることであり、それこそが人間本来の感覚なのだ。

自然を対象として扱うことは、生産物の価値が「どれだけ役立つか」という有用性によって決まると思ってしまう。それを自己所有化する。バタイユはこれを事物化と呼ぶ。
やがて人間は、事物が要請することに忠実に服してふるまうようになる。
こうやって形成されていく世界を、「俗なる者の世界」と呼ぶ。
この過程により、人間は対象として捉えた自然を支配し、所有するけれども、その代わりに「そういう自然」とは切り離される。かつて通い合っていた何かが失われる。その何かを復権させたいという欲望を抱くというのだ。

エモい写真と現代人の認識からすり抜けた感覚

エモい写真とは、はじめは言語的にカテゴライズされていない感覚であったように思う。
「エモい」を流行らせたのは落合陽一氏だというが、それ以前からエモいという感覚はあったはずだ。
エモいとは、感情的な雰囲気に郷愁や寂しさやなんとなく良いというイメージのもやっとした感情の集合体であると思う。
人それぞれだろうが、こういったもやっとした感情の集合体を「エモい」と名付けカテゴライズし、共感・共有されることでエモいは「エモい」になり、エモそうな写真は「エモい写真」になった。

この過程は言い表せない感覚の集合体であったイメージを対象とし、名付け・カテゴライズすることで、言い表せるものにしたのだ。
それはただちに共有され、体系化された法則となった。
するともはやエモいという感情は、すぐさま消費されるものとなる。
SNSでエモいとハッシュタグを付ければ、一気に共感し共有される「商品」となったのだ。
エモいというハッシュタグに定式化され、それを技術的・演出的にコピーされていく。
それまでなんとなく撮られていたエモい写真が、意識的に企図してエモい写真を撮るという行動を生む。
この話、表現行為においてはもはやルーチンワークとも言える現象であり、写真界で言えばこのnoteでおなじみの森山大道や中平卓馬が写真を撮れなくなった苦悩でもある。表現者なら誰しもが通る矛盾への道なのだ。

中平卓馬は森山大道らとともに、写真の一時代を築いた写真家である。
伝説となった写真同人誌プロヴォークで、アレ・ブレ・ボケといわれた前衛的なモノクロ写真で一世を風靡した。
この写真は、ウィリアム・クラインなどの写真表現方法の破壊と再生を踏襲しているという文脈に沿っていた。

しかし、森山大道や中平卓馬が著名になると、この文脈を無視したコピーが乱雑され、彼らはこの成功というイメージに苦しむことになる。
ロック歌手が自暴自棄になったり、一発屋として消費され尽くすお笑い芸人を思い浮かべればよいだろう。
表現行為が「言い表される」ことで、彼らの思惑を超えたところで消費されていくのだ。
言い表せられ、法則となった自己の表現手法は、自己を勝手に規定し、そして自己の時間的な過程を無視してオートマティックに大衆化していく。
これを経済的な商機と見做し、「有用性」という価値に自己を委ねることができれば大衆化にも耐えることができるだろう。
社会が用意した価値観ー例えば「経済的成功は良いことだ」という社会を維持するための誘導的指向性ーに自らの存在価値を見出すことができればよいのである。

しかし、「自分はいつも自己の意識と統一されている」という固定概念に寄与した自己像しか持てない人間にとって、これは収奪以外の何物でもない。
経済的な成功やSNSでバズること、フォロワー数が激増することは、そんな社会の用意した価値観であり、バタイユはその生産的消費の渦中にいる間は決して満足することはできないといっている。
この社会の用意した価値観=法則化に反して、バタイユが提示したのが『蕩尽』である。

蕩尽

バタイユのいう蕩尽とは何か?

バタイユは、消費を「生産的消費」と「非生産的消費」に分類する。
生産的消費とは、マルクスの「生産的消費」および「消費的生産」に当たり、一時的な損失ではあるが結果として生産に役立つような消費(たとえば、労働力の支出、生産手段の損耗、原料・燃料の消費など)のことである。
これに対して非生産的消費とは、決して生産に還元されることのない無駄な消費(たとえば、供犠、浪費、芸術など)を指す。
人間は、生産あるいは生産的消費に従事しているかぎり有用性に隷属する存在であり、非生産的消費すなわち蕩尽することによって、有用性に従属しない至高性を回復するのである。 佐々木雄大

蕩尽とはなにか?
それは、今まで述べたような社会の用意した価値観に至る生産的消費=隷属された感覚へのアンチテーゼである。
エモい写真を代表するように、「流行の写真表現」は時代という生産的消費に文字通り消費尽くされる。
それは自己とは関係のない大きな流れに流されることであり、最終的には不毛な競争原理に導かれていく。
この競争に乗ることは、いずれ社会の用意した価値観に収斂されていく運命にあり、それは終わることのないコピーのコピーのコピー・・・
自己のアイデンティティは剥がされ、「言い表しうるもの」とされた有用性というただの記号になる。

蕩尽という概念は現代では殆ど残されていない。
よく例とされるのは、ネイティブアメリカンの過剰な歓待「ポトラッチ」である。
これは宴会の主催者である酋長が、高価な富(奢侈品、カヌー、奴隷等)をこれ見よがしに破壊するという行為だ。
一見無駄にしか見えない行為だが、富の再分配、共同体の結束や宗教的権威の確立といった効果がある。
これは非生産的な消費=交換様式であり、貨幣との等価交換に縛られた現代社会では忘れ去られた感覚である。

といっても、カメラや写真をぶち壊せという意味ではない。
有用性への隷属が当たり前とされている現代において、蕩尽という概念はメタな視点を与えてくれる。
ポトラッチの破壊行為は、富の過剰な所有や無限の拡大を「閉じる」効果がある。
有用性への隷属は生産的消費への参加であり、気づけばその狭い生産的消費の中のひとつの商品カテゴリーに組み込まれ、その中で広告や競争に踊らされ、そして消費尽くされればまた新たなカテゴリーへと誘われる。
写真趣味で言えば、風景や撮り鉄やポートレートなどの撮影対象カテゴリー、持っている機材のカテゴリーなどなど、カテゴリー化された商品に取り込まれていく。
ただの趣味といっても、それはどこかのカテゴリーに所属することとなる。それが現代である。
故にヴィヴィアン・マイヤーやソール・ライターがSNS全盛時代の現代に持て囃されるのは、『カテゴライズされていない完全に自分だけの空間で写真を楽しんでいた』という点であろう。
ヴィヴィアン・マイヤーは誰にも見せずに淡々と写真を撮り続けていたし、ソール・ライターも本業とは別の完全な個人的な楽しみとしての写真が注目されている。
ヴィヴィアン・マイヤーもソール・ライターも『発見』されたのだ。
何に?それは新たな消費カテゴリーを求めている生産的消費社会に。

言い表せない感覚の写真

エモい写真はまさにこの生産的消費の渦中のとあるカテゴリーとなった。
これもいつか消費尽くされ、飽きられ、また新たなカテゴリーを求めて世界は広がるのである。
この生産的消費に乗ることを否定しない。
だがそこにはゴールはない。
そこにたどり着いた人間もいずれは忘れ去られるか、そのカテゴリーの守護者として齧りつくしか道は残されていない。
しかし、普通の人々はヴィヴィアン・マイヤーやソール・ライターになれるのだろうか?
ゴッホのように死んでからやっと名を残したいのか?

僕の思う写真とは、手軽な自己表現である。
表現活動とは、現代に残された数少ない自分を「自分」として感じることができる瞬間である。
これだけ社会が扁平化し、統計上の点でしかない自己を自己認識するためには、他者に認めてもらわなければならない。
だからこそ人は表現者を尊敬し、企業は表現者を持ち上げ、広告はオリジナルで唯一無二の存在へと人々を雪崩込ませ、そしてそこには有用性への隷属という名の生産的消費の「何か」とされ最後には捨て去られる運命が待っている。
手のひらを返すようだが、現代の良いところは手軽に自己表現ができ、それを手軽にSNSで共有できることだ。
故にオリジナルな表現者は量産され、捨て去られるサイクルが速くなったが、逆を言えば程々のコミュニティの中での自己承認欲求を満たすことは容易になった。
エモい写真は、エモい写真を共有する人々の中での共感を簡単に得られるツールでもあるのだ。
結果ではなく、それに向かうプロセスそのものが共感を得るのである。

天の邪鬼な僕は、それでもオリジナルな写真を求める。
それは結局の所、生産的消費の無限にあるカテゴリーの間を行き来する「良き消費者」となることでもある。我が防湿庫を見れば納得の一言であろう。
エモい写真を追求すること、それによりSNSで著名になるよう活動すること、それは数多あるパッケージの中の一つに収斂されていく行程であり、それは突き詰めれば過酷な競争という名の消費となる。
僕の求めるオリジナルとは何か?それは結局、この一般人から見れば不毛な競争の中を神出鬼没に動き回り、無酸素に近い沼の中から時折息継ぎのためにパクパクと顔を出すような、そんな生存競争である。
だがそこにこそ自分の行いたい表現があると思うのだ。
それは「言い表せない感覚」を撮ることである。
エモい写真がまだエモい写真と言い表せなかったころも、人々はエモい写真を撮っていた。
言い表せない感覚を表現することは非常に難しい。
美術史上の大家は、皆一様にこの感覚を物象化してきたのだ。
だが、写真だと手軽だ。なんせ特別な技術はいらないし、特別な場所でなくても良いし、何なら一人でできる。
これは野心的な意味ではない。
言い表せない感覚を撮ることで、自分が確かに存在していることが確信へと変わるのである。
そしてそれこそ写真の醍醐味であり、面白さであろう。
何でもない景色の写真が、いつか朧気に形作り、自分の手により言い表せる感覚となる。
それは自己満足であるし、もし共有されたくさんの共感を集めることができたら、それはそれで喜ばしいことだ。
これこそ、写真というメディアのメディアたる所以であり、コミュニケーションなのだから。

これも結局は有用性への隷属ではあるが、それを意識的に我儘に行う過程こそ、生きているという実感を得ることができるのだ。
エモい写真がエモい写真になる刹那、そんな我儘な人たちが大いに生きていたに違いない。
自らが見つけた言い表せない感覚が言い表せるようになった、その瞬間はポトラッチのような破壊、すなわち非生産的な消費=蕩尽といえるのではないだろうか?
これは現代に残された数少ない生きている実感を伴う消費であると思うのである。
瞬間に生きる、それが写真なのである。

参考文献


他にもChatGPTには絶対に書けないまとまりなく有用性のかけらもない文章を書いていますので、よろしければご一読くださいませ。

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