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フィルムとデジタルの撮影における主観の違いについて

今年は写真を深く考える年であった。

フィルムとデジタルのカメラを買い漁り、そして写真とはなにかを受動的かつ経済的に思い知ったのである。

ということで、今回はフィルムとデジタルの違いについて。

同じ場所を撮るにしても、全く違う選択に次ぐ選択だったので興味を持った。

カメラもレンズもISOも全然違う条件ながら、単純なツールの違いによる選択の変化の範疇を超えているからだ。

では、実際の作例を見比べてみよう。

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夏のスキー場にて。

こちらはLeicaM3、フィルムはKodak GOLD 200 35mm


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こちらはSIGMAfp、よってデジタル。

レンズは両方ともLeicaで、35mmと50mmを入れ替えながら使っていた。

そして同じ場所で撮ったのがこの写真だ。

この2枚を見比べてから、以下の考察をご覧ください。


フィルムカメラで撮る写真

現在、フィルムで撮るということは、非常に稀有にして酔狂、要するに経済的コストが重くのしかかる道楽となっている。

デジタルであれば何百枚撮ろうが、SDカードがあればバッテリーの充電代くらいでほぼコスト0。

デジタルカメラは買ってしまえば、カメラが壊れるまでの何十万枚の写真はほぼ無料で撮れる。

だが、フィルムともなれば35枚撮るだけでまずフィルム代が600円~1500円、さらに現像代がネットで頼めば300円、店舗だと600円くらい。

実家が石油王でもない貧民ブルシットジョブな僕にとっては、凶悪な経済的負担である。

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なので、まず一枚一枚にかかる精神的経済的プレッシャーは想像を絶する。

よって僕の撮るフィルム写真は皆、一様に教科書的な礼儀正しい写真だ。

そもそもフィルムでは、撮影する以前の条件を念頭に置かなければならない。

ISOは固定、今回は200。露出計のないM3だと、いちいち露出を測りながらシャッター速度と絞りを調整する。

なんせ失敗はできない。

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そう言いつつも、沈胴式レンズで撮るという二重のリスクマネジメントを怠るとこうなる。


ともかく、まず撮影地の条件を把握し、そこから構図を決める。

完璧な場面であっても、逆光だとオールドレンズは夏のフレア大祭りになるし、リバーサルフィルムなんか使っていたら露出は非常にシビアだ。

よってフィルムでの撮影とは、環境から受け身の態勢となる。

受動的な態勢からの飛躍、その刹那にだけシャッターを切る。

デジタルではどうか?暗がりだろうが、明暗差の激しい状況だろうが、すぐに、そして何枚でも撮れる。

光を待ったり、微妙な調整をせずとも、とりあえず撮れる。帰ってRAW現像すれば、たいていのミスはリカバリーできる。


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しかし、フィルムで撮った写真は、だからこそ撮影者にとっての思い入れは濃い。

この写真は露出測定の難しい、木漏れ日の明暗差の激しい状況での一枚。

結局は白飛びしてしまったが、この一枚を撮るために5分は粘っていた。光の移ろい、終わらない露出測定、飛び交う蝿、風で体は揺れ、シャッター速度を調整し直し、ピントが不安で指は震える。

撮影行為における受動的な環境からの飛躍という自己責任、まさにこの瞬間にこそ『撮影行為の本来あるべき』を感じることができる。

これは結果主義への反抗であり、行為と主観の調和。要するに現代ではコストを理由に削り取られた『不安』なのだ。

人間の行為を徹底的に簡略化し、不経済性を取り払い、結果への最短ルートのみを歩まされる人工的で官僚的な受動環境を是とする現代において忘れ去られた不安。

アラン・セクーラは、「労働の細分化によりルーチン化され、商品とされた自己を週末だけ忘れさせてくれるのが(写真)趣味であり、芸術活動」と言った。

まさにその忘却への足がかりが不安であり、だからこそ悩む。

この不経済性こそ、受け身の環境でありながらそこには本来の自然があり、主観の発露を明確に感じ取ることができる一瞬なのだ。

そして皮肉なことに、僕の場合その瞬間に求める写真は教科書的な構図。

だがこれこそ普遍の美なのかもしれない。

完璧な構図は、やはり人間の脳内のどこかに設計図があるように思う。

ブレッソンの写真に数学的な調和を感じ取るのは、この普遍的なしっくり感があるからであろうし、『ヒトの目、驚異の進化』でマーク・チャンギージーが述べているように人間は自然にあるパターンを情報として受け取っているからこそ文字が読めるというのは写真にも言えるのではなかろうか?

まとめると、フィルムでの撮影とは、

・主観的な撮影行為が堪能できる

・経済的プレッシャーは普遍性に行き着く(僕の場合)

だろう。


昨今、フィルムカメラブームという名の近場では見たことがない現象があるらしい。これはフィルムのエモさを全面に押し出したアート写真がSNSで映えるからという。

僕は貴重なフィルムでアートという実験的な撮影を行う勇気も金もないのでよくわからない。

が、このフィルムエモブームは、SNSが非常に影響していると思う。なんせSNSの登場で写真が世に溢れ、もはや写真の概念を変えてしまう勢いだ。SNSとは感情的に消費する場であるからして、コンマ数秒の脊髄反射の競争世界で勝ち抜かねばならない。

スマホやデジカメでの写真の洪水の中で、フィルムがそこで目を留める数秒を提供する理由は大いにあるだろう。

さらにフィルムの複製力は、デジタル世代にとっては幕末の銀板写真程度に感じられているだろう。

皮肉にも写真が大衆消費社会での商品という枠を超えて、生活必需品にまで社会に浸透した結果、撮影行為と共有の簡素化がフィルムを『エモい』と感じさせてくれる感覚を生んだわけだ。

そこにはフィルム独特の描写もさることながら、古のオーディオ機器やクラシックカーを感じさせる文化的な何かがあり、現像という錬金術師のような怪しげな何かまで添えられている。

この消費こそ、フィルムらしさだと思う。先程述べた通り、フィルムには行為と不安があり、デジタルで克服された不便のすべてがある。

ここにエモさを感じるというのは、現代人が忘れている、いや知らぬうちに金で買ってスルーしている感覚があるからだと思うのだ。


デジタルカメラで撮る写真

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デジタル=撮影ではないという意味ではない。

デジタルは結果主義、要するに技術の行き着く果てだ。昭和初期のカメラマンを転生させて、最新デジカメを使わせたら涙するだろう。

思うに、カメラ雑誌の写真コンテストは昭和時代の不確実性を覆い隠す技術力にスポットを与えているように思う。撮影技術は高度かつ専門的で、微妙な感覚の差、すなわち職人気質な硬さを持つ分野であるとの認識が強いように思う。

写真コンテストは技術なのだ。選者が誰であろうと、どうも似通った教科書的な写真が多い。これは技術力と普遍性こそが評価されるという写真芸術の古典的な価値観があると思うのだ。

デジタルカメラはこの技術面を、デジタル技術でカバーする=スペック競争に陥っている。新製品はこれでもかと色んなものがてんこ盛りで、5000万画素だったり瞳AFだったり、さらにRAW現像まで・・・もはや結果主義の最果てにたどり着いた。

日本のカメラメーターはこの技術力を至上命題としており、そこから広告料をいただいているカメラ雑誌のコンテストの価値観が変わらないのはまさにそれを表している。

これこそが、カメラという技術が求めていたゴールなのだ。

そしてその最後の頂きで勝利の雄叫びを上げているのが、皮肉にもiPhoneだった。


現在のデジタルカメラ市場は、凋落の一途を急激に辿っている。

技術至上主義という令和の大艦巨砲主義に陥ったデジタルカメラは、生活に浸透しきったカメラの役割を見失い、大和級の巨大戦艦を量産している。

iPhoneこそ、カメラの到達点であり破壊者なのだ。iPhoneで撮れない写真はたくさんあるが、iPhoneで撮れない写真の需要は限りなく小さい。

SNSと共に、写真は単なる記録を超えた。決定的瞬間ではなく、全記憶のバックアップになったのだ。

従来のカメラの設計思想は、決定的瞬間である。ブレッソンの呪縛は、カメラの基本設計に呪いとしてこびりついている。

そんなこんなでデジタルカメラは、高機能なiPhoneカメラになった。


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デジタルカメラは、技術と結果を求める戦士のための特殊兵器になった。先細りするカメラ業界全般は、このまま死に絶えるのであろうか?

否、なんせフィルムカメラがまだ細々と生きている。フィルムカメラなんて、わずか10年程度で圧倒的メインステージから転げ落ちた。Kodakまで過去最高益からわずか数年で破産したのだ。

デジタルカメラは、今や転換期。ここで踏ん張らないとKodakの二の舞になってしまう。

僕の買ったカメラはSIGMAfp。この時代に、低スペックで特殊用途仕様でコンパクトというわけのわからないカメラ。ガンダムで言ったらケンプファーです。

でも、このカメラこそ撮影行為のための超主観カメラである、そう思って手に取った。詳細はリンクを見てね。

要するに、デジタルカメラは二極化するしかないと思うのだ。今まで通りのスペック至上主義プロ用カメラ、そして撮る楽しみを味わえるカメラ。

スマホでの撮影は作業でしかない。カメラはここの多様な工程と所作が加わる。コンビニでコーヒーが買える時代に、わざわざ豆を焙煎することから始める人がいるように、人間はこの無駄な作業がたまらなく愛おしいようだ。

いや、これは現代人だろう。フィルムカメラ考でも書いたとおり、現代の社会環境で一番邪魔者扱いをされているのは、個人の主体性だ。

合理と経済の歯車は、人間本来の生きている感覚をコストとして弾き飛ばしている。

デジタルカメラの機能は申し分ない。でも機能だけで物が売れる時代ではなくなった。デザインという付加価値、さらにアイデンティティを震わせるようなモノ。

fpはまさしくそのようなカメラだ。デザイン重視、特殊用途過ぎて何から手を付けたらよいかわからない。説明も不明瞭ながら、不要な説明が一切ない。

個人的に欲しいカメラ、それはfpやNikonDfのようなカメラ。あとハッセルブラッドの907x。

ただの懐古趣味ではなく、撮影時の感覚に重心を置いたカメラだと思う。だからこそ、歴史的なデザインも必要なのだ。拡張性だってカメラの歴史を体現するような設計。これはスマホには絶対できない。


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デジタルカメラの時代性についてはこの辺にして、本題のデジタルカメラで撮る写真とは・・・

これこそ結果主義、結果から逆算して撮る写真。フィルムカメラのように絶対的な条件は皆無、その場で結果というイメージに合わせることができる。

RAW現像すればさらにイメージを具現化できる。まさに魔法。「撮りたい何か」がある求道者には最適のツールだ。

上の写真は、Leicaのオールドレンズで「狙って」撮った。こんな遊びはフィルムじゃできないからだ。


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デジタルカメラは、構図に凝ることができる。

その場で確認しながら、ああでもないこうでもないと試練の繰り返しができる。

ショアっぽい構図に憧れて、中判フィルムカメラで一発撮りしてやろうと思っては見たが、やっぱり無理。

ショアっぽい構図=教科書的な構図だと思いきや、それが全然違うということを教えてくれたのはデジタルカメラだった。

結果主義は悪い意味ではなく、欲しい結果に寄せるというのはまさしく技術の母なわけで、デジタルの恩恵に預かっている。

しかし先程のフィルムカメラと比べると、「いつでも撮れる」「何枚でも撮れる」という余裕が、一枚一枚の集中力を生まない。

フィルムで撮った写真は思い入れがあると書いたが、データ量では見えない記憶が大量に練り込まれている。

デジタルはまさしく結果こそが価値と意味を生む。


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またデジタルカメラは、デジタルでしか挑戦できない表現ができる。

フィルムでもできなくはないが、まあ超絶技巧なわけで。でもデジタルであれば、敷居が低い。

デジタルはオートで何でも撮れる、しかしかつての超絶技巧も少し勉強すれば挑戦できる。より表現の幅は広がり、かつ補助ツールを使えば可能性は無限に近い。

ちなみにそのために大いに散財するはめになるのは、身を持って知るべし(笑)


以上のように、デジタルカメラの撮影における主観とは、結果ありきだ。

まず撮りたい結果としてのイメージがあるということは、そこに向けて主体的に操作する事が必要になる。

かつてのリアリズム問答が消えて久しい現代において、自然の摂理を操作することはかつての破壊的なイメージではなく、表現という大きなカテゴリに納入されている。

ありのままの~が流行りながらも、ディストピア的な様相を見せる日本社会の未来において、『絶望の国の幸福な若者たち』にあった悲観的な「今を生きる」衝動との親和性が高いのが表現なのだろう。

「何でもないようなことが幸せだったと思う」は作れるのだ。

SNSに溢れるHDRゴリゴリの桃源郷こそが、「今を生きていた」という死の衝動のような気がしてならない。

これはフィルムのエモさにも通じるだろう。

このエモさの感じ方に世代間格差があるのは当たり前だ。この「今」こそ死の衝動であることが生活感を持って感じることができるか否かで、現代の写真を語ることはできないだろう。

フィルムの不安、そして非再現性。デジタルの合理化による自由さ。

これこそが現代におけるフィルムとデジタルの主観の違いなのである。


本編はフィルム、デジタルどっちが良い?という意味ではなく、その性質の探求であり、それはそのまま自らの撮影スタイルの洞察でもある。

フィルム、デジタルを両方齧ったことがある人にしかできない自己洞察、そこに『撮りたいなにか』と『写真とはなにか』の自分なりの答えがある。

この極端な差異の間を行ったり来たり流されながら、そこでふと自分を知ることができるのだ。

この1年、LeicaM3からLeicaR8、プラウベルマキナ67というフィルムカメラを買い漁った結果、SIGMAfpを購入したという僕の消費活動の自己洞察がこれで成ったわけだ(笑)

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