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コロナウイルスと写真

今年はとにかく写真趣味者には辛い一年であったのは言うまでもない。

写真=記録

写真趣味=答えを求めて撮りに行く

という公式に嫌でも気付かされた。


我々はスマホがこれだけ普及した現代において、一般生活者には一切不要の高スペックかつ多機能でオーバースペックな高級道楽機械を嬉々として手に取っている。

カメラとはもはや道楽者のモノ。

廉価スマホですら簡単に記録することができる現代の空間を、必要以上に高画質で切り抜いてやろうと企む狩人なのである。

だからこそ、我々は形式的非日常の場を求めて彷徨う。

我々は非日常の空気を各種フォーマットに押し込め、それを自宅で主観的観賞用玩具としての情報に変換する義務がある。

故に、我々は非日常を求めて、形式的美学という名の打算としての聖地探求のために、さもなくば新たな可能性としての表現という名の自暴自棄のために、家族を置いて不毛な徘徊を続けて・・・いた。


しかし今年は何であろう、この無力感。

防湿庫で阿鼻叫喚の静けさにふけるカメラやレンズたち。

たかだかウイルスのために、我々は貴重な時、すなわち週末に訪れる、あの無味乾燥としたルーチンワークを忘れさせてくれる、そう、例のひとときを、完全にロックダウンさせられたのだ。

我々が恐れるのは、シャッターチャンスの喪失とレンジファインダーカメラのキャップ外し忘れとレンズのカビだけじゃなかったのか!!!!


憎きコロナウイルスにより、我々は肉体的精神的な活力を奪われ、あるものは酒に溺れ、あるものは不要な物欲に苦しみ、あるものはとりあえず防湿庫の掃除をしてみたり・・・

ああ、不甲斐なきかな、2020年。

しかし、2020年こそ、非日常を奪われた日常を写す一年となったのだ。


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この写真はすべて自宅から100m以内で撮った。

2020年でなければ撮ったであろうか?それはわからない。

しかし、撮りたいものが撮れないからこそ、撮れるものを撮るという逆公式。

それは記録と表現の中間、写真の記録という至上命題と写真趣味者のわがままのまどろみ。

記録とはあるがままの時間、それを記録という観点から作業的に切り取る。

家族の記念写真、冠婚葬祭、集合写真、この記録のための記録写真という記録義務の周辺。

写真趣味者のわがままとは、まさに多様。昆虫の生態のように多元かつ特殊。

撮りたいものではなく、撮れるもの。

撮れそうなものと撮るに値しないもの。

撮りたかったかもしれないものと撮れなかったもの。

撮れたとしても撮らなかったものと撮れたとしても撮れなかったもの。

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そんな2020年、なぜかフィルムカメラを買い漁った。

それはちょうどそんな時期だったのであり、だからこそそうなったのかもしれない。

貴重なフィルム、頭の中の電卓が驚異的な数値をはじき出す中、被写体はどこでもないどこかであり、日常の延長としての非非日常、結局は『撮りたいものが撮れない』という感情と『そもそもそんなものはないし必要もない』という理性のせめぎあい。

要するに宛先のない物欲の暴挙だったりして。


まあともかく、今年は「被写体とは何か?」に尽きる。

撮れないとわかっているものが撮りたくなるし、撮れないのはコロナのせいではなく自分の腕と感性のせい?なんて思ってみたり。

それでいて、ふんわりとした今までの写真人生が、何者かに踊らされていただけかもしれないという疑念も浮かんだ。

カメラ雑誌やSNSだけではなく、あらゆる写真との媒体が、僕をそれこそウイルスのようなパターンに押し込めようとしていたんじゃなかろうかと。

そんでもって大量の写真論本と写真集を買う羽目になった。

写真とは義務でも何でもなく、最近のカメラであれば誰でもきれいな写真が撮れる。ネットでちゃちゃっと基本さえ学べば、『っぽい』写真は誰でも簡単に撮れてしまう。

僕自身はそんな気は毛頭なかったが、ここまで追い込まれる環境に長く座っていると、さもありなんと。

なんせ撮れない、撮れないのはなぜか?機材が悪い。これが今までの僕。

しかし、フィルムカメラを使ってわかったのは、機材購入は栄養ドリンクみたいなものであって、一時的なブースト効果があるのみだということだ。

そして新機材を駆使して束の間のブーストを楽しんだあとに、またああでもないこうでもないと新機材を探す羽目になる無限地獄、それこそ根拠なき写真趣味消費でしかなかったのだ。

カメラは消費商品であり、道楽であるのはいうまでもない。だからこそ、何も考えず、無意識に漂う広告情報の残骸でなんとかやってこれた。

が、今年はそうではない。無理に意識化してもなお、撮れないのだから。

機材が悪い、場所が悪い、天気が悪い、季節が悪い、そんな対症療法が入り込めないまさに無菌室。コロナウイルスが作ったこの環境は、皮肉にも写真趣味者にとって微生物すら生存できない滅菌された酸の海であったのだ。

ひたすら写真の何たるかを、先人の知恵と、先人の排泄物、及び先人の屍も一緒に胃に流し込み、そしてたどり着いたのは・・・まだわからない。


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しかし、昨日何気なく撮った一枚。

この一枚に強い納得感を禁じ得ない、僕の中で。

アラン・セクーラは、「芸術は抑圧的な社会秩序の回復である」と述べたが、今その言葉が異様にしっくりくるのだ。

写真を撮るという行為は、獲物を探す狩人であり、そこに自己=作家性という幻想を抱く。※そこに広告が付け入ることで、我々は大いに散財するのであるが・・・

その「自己」と「社会から疎外された自己」とのギャップを埋める行為、それが趣味であり写真であり、いうなれば表現なのだ。

写真の記録と表現の違いはまさにここなのだ。

我々は写真を撮っているのではなく、撮らされている。

それは自己の内から来る反抗的態度であるのか、社会からの抑圧からの逃避であるのか、これこそがその人の被写体の答えなのではないかと思う。

反抗と逃避、どちらが正しいという意味ではなく、そこに当人の写真を撮る意味と動機があるように思うのである。


撮れないからこそ生まれた写真、それを偶然でもよいから撮れるように足掻いてみる。

その先には、何が見えるのか?


外出できない鬱憤記事もよろしければご覧ください。

最後に一つ、今年は人生で一番カメラ関連に金を投資しました(笑)

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