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『引っかかりと足りないもの』

写真集『SLEEPING BY THE SHIMANE』の論考として『引っかかりと足りないもの』について書いています。

またフィルムカメラとSIGMAfpについても、後半に記載してありますのでよろしければどうぞお願いいたします。


既視感を追い求める写真とは?

故郷、島根県をわけもなく歩いたこの一年。

今までは「撮りたいものを撮る」という気持ちでいました。しかし、県外に出ることができないという状況の中で、今までの撮影がただただ「撮らされている」ように思えました。

なぜか。

それは、「写真とは撮るべきものを撮る」ためにあり、「撮られるべきものを撮ったもの」が写真であると思っていたからです。

これはいわゆる教科書的な写真、いわゆる「いいね」される写真です。

その写真を見た瞬間に引き寄せられる力があるとするならば、いわゆる教科書的な写真、「いいね」される写真は「普遍的な既視感」です。

これは写真を愛する者であれば、誰もが一度どころか何百回も見たことがあるような写真。写真雑誌や広告、写真コンテストの入賞作、SNSで拡散されている写真。

この既視感をできるだけ押し付けがましくなく、かつ自然に写し取る行為が現代の社会に適応した撮影であると思います。


なぜなら、写真が世に溢れているからです。

SNSにより写真という情報は異常なまでに増殖拡散し、もはや生活の一部となっています。その写真という大きな世界の中には、大小数多の群島が存在し、写真を撮る人はすべからくそのどこかにカテゴライズされています。

ですが世間様に排出される写真は、カテゴライズが不明瞭な巨大フォーマットのどこかから吐き出されることになっています。

故に、大量の写真が統制なく散らばっていく、その一瞬の生の時間の中で世間様の目に触れるためには先程の「既視感」が重要視されます。

既視感と称したのは、写真に数学的な正解は無いからです。人間が「快」を感じる構図や黄金比はありますが、写真という情報はそれ自体で完遂するものではありません。

よって既視感は曖昧模糊な写真世界の中で、普遍性を与えてくれる教義となっていますが、そこに真理があるかは定かではありません。

既視感を求めようとすると、結果主義の写真の追求になるのは言うまでもありません。型にはめる行為は、まず型があると思えばこそであり、これは共同幻想です。

まず結果があるからこそ、そこに最短距離で、しかもミスなく到達するためには、よりハイスペックなカメラやレンズが「必要」になってきます。

この世界観こそ、昨今の過剰ともいえるスペック至上主義のカメラ業界です。もちろんメーカーは金儲けが至上命題ですから、短期的なモデルチェンジにより消費を煽るのは何ら責めることはありません。

このnoteで何度も書いていますが、この結果主義に向けたカメラこそ、往時のカメラ小僧たちが追い求めていたカメラであり、この需要が日本カメラメーカーの発展を支えていたのは言うまでもありません。

しかしこの現代写真の世界観の中では、「撮らされている」という感覚がつきまといます。

写真を表現と見た場合、ここに矛盾が生じるのです。

「既視感」が湧くであろう景色を探すのか、それとも自分の中で何か『引っかかる』瞬間を撮るのか、これには撮影行為自体の思想が違います。外圧と内圧による動機の違いは、ひいては写真そのものが根本的に違ってくるからです。

既視感は結果という答え(イメージ)があり、それは外からの要求に受け答えるものです。引っかかりとは外からの影響は当然ありますが、それでも自己との対峙という場がまずあるわけです。

どちらが正解というわけではありませんが、僕は後者です。


『引っかかり』と表現

自分の中で引っかかる瞬間、それが何なのかは説明できませんし、またそれは流動的で前夜に読んだ本の内容でも違ってきます。

ここを突き詰めて言語化し、自分の中で納得できるまで落とし込めるのは偉大な芸術家かそれとも狂人でしょう。

もちろん、「引っかかり」が普遍的な既視イメージに近くなることは大いにあります。どうやら人間には、根源的な「良い/悪い」のアルゴリズムは存在するようです。

しかし、この「引っかかり」の追求こそが、自分を知ることなのだと思うわけです。

それは答えなき不毛な旅路ではありますが、これこそ現代社会という不毛な人間性を強いる世界にはうってつけの、人生を賭ける意味のある行動だと思います。

なぜなら、社会が発展すればするほど、個人は均質化しやがて無になっていくからです。哲学的な存在論ではなく、社会不適合者の悪あがきのようなものです。なんせ、我々が写真撮影を楽しめるのも、社会のおかげですからね。

この共依存の歯がゆい関係から生まれるのが、「表現」なわけです。この表現とは芸術という意味ではなく、人間本来の精神性の暴発のようなものだと思っています。

煌めく星を見て「わあ、きれいだな」と思える感情のように、縄文土器の凄みが言語化できないように、そしてそれは地球上で人間しかできない行為、それが表現(としか言いようがない)だと思います。

自分の内から生み出されてくる「何か」を捉え、それが何なのか?なぜなのか?と禅問答する過程が楽しいのです。


フィルム写真と『足らないもの』

この「引っかかり」を踏まえて、僕の写真を眺めてみると、面白いことがわかってきます。

まず、デジタルとフィルムで撮った写真がそれこそ別人が撮ったんじゃないかと思うほど違います。これはまさしく、デジタルとフィルムの良いところが滲み出た結果だと思います。

デジタルはより「引っかかり」に挑み、フィルムは普遍的な既視感に近い構図です。これは当たり前ですが、何百枚も撮れるデジタルと、限られた枚数でお金もかかるフィルムの違いです。

でもこれが単純に分けることができなくて、フィルムカメラを始めてから自分の写真が大きく変化しました。

一枚一枚を、細かな設定を調整しながら大切に撮る中で、写真に対する考えが変わったからです。

むしろ、デジタルしか経験がなかった時の方が、明らかに既視イメージを追い求めていました。フィルムカメラを使うことで、一枚にかける考えやエネルギーが増え、そして「足りないもの」が気になるようになりました。

この「足りないもの」こそ、「引っかかり」の呼び水だと思います。

「なんかしっくりこない」という感覚が日増しに増えていき、気づけば写真論の本を読み耽るようになりました。

フルマニュアルのLeicaM3、10枚しか撮れないプラウベルマキナ67、こんなカメラを使いながらああでもないこうでもないとウロウロし露出を何度も計測しながら、時には神頼みまでして撮る一枚が(そんな時はだいたい失敗している)撮影行為と真剣に対峙する時間となったのです。


そのため、今回の写真集ではデジタルとフィルムの写真を混在させました。

時系列もバラバラです。

この一年の後半になってからは、写真が大きく変わってきました。これはデジタル・フィルム関係なく、「引っかかり」をより強く感じるようになったからです。そして比例するように「足りないもの」も腹の底にズシンときます。

これには、先人の「引っかかり」を多く見たことも影響しています。

特にスティーブン・ショアの写真集は、「引っかかり」が腑に落ちる感覚がありました。やはり偉大な写真家は、自己洞察という苦行を超えた先にいるようです。もちろん、その先に幸福があるかと言えば・・・それは同一視できないようですが。

今回の写真集は、非密な環境の中で濃密な写真との対峙をしたことから生まれました。移動の制限がなされたことで、皮肉にも安易な撮影ができなくなってしまいましたからね。

何もないことを見慣れた田舎の景色の中で、わずかな「引っかかり」を探すのではなく、感じるよう努めました。

そのうち、何枚かは「引っかかり」を強く認識できるくらいまで落とし込めたかと思います。

しかし1000枚以上の中から46枚を選んでみたのですが、撮影枚数が圧倒的に少ないフィルム写真の割合が多かったです。

先程、教科書的な構図、置きにいった感じがすると書いたフィルム写真ですが、僕の中では「自己との対峙」がより強い写真になっているからではないかと思います。

フィルム写真は構図に凝らざるを得ません。なんせ確認できませんからね。なぜかレンジファインダーカメラが多いので、思い通りの構図にならないことのほうが多いです。

ですが、「引っかかり」をより捉えているのがフィルム写真です。なんせ(経済的な理由ですが)失敗できないから。集中力が突き抜けています。

初期のフィルム写真は、構図だけではなく被写体すら置きに行っていました。後半は、より主体的な、悪く言えば自己中心的なイメージに構図をあてがっている感覚です。

フィルム一枚にかけるエネルギーが強いからこそ得られるモノ、それを大いに教えてもらった一年でした。


考えなければ使えないカメラ、SIGMAfp

そしてデジタルはSIGMAfpです。

このカメラは、デジタルでありながら思想的にはフィルムカメラに近い、撮影者本位に乗りこなせれば最高のじゃじゃ馬です。

詳細は上記リンクに譲りますが、fpは撮影者が考えなければ撮れないカメラです。スペック的にはフルサイズなのに超小型であるという利点を除けば、昨今の化け物スペックカメラたちから見れば比べようがない貧相なものです。

しかし、とにかく自由です。マウントアダプターを使えばレンズの樹海に迷い込めますし、本格的な動画撮影までできます、何ならドローンに取り付けて空を飛ばすことだってできます。

故に中途半端、自由すぎる自由は使う側に責任と思想が必要です。それが面倒だったり、すべて機械に任せて簡単に扱いたいというのであれば即不要でしょう。

結果主義の対極にある、未だ見ぬ何かを求めている行動派の足になるカメラです。なので、fpはゴールには決してなれないカメラでしょう。

そんなfpですが、僕はほぼSIGMA純正レンズを使っていません。メインはLeicaレンズです。単純なあこがれで手にしたLeicaレンズですが、やはり使ってみるとそれだけの価値はあります。

まだうまく使い切れていないからだと思いますが、Leicaレンズは予想外の一枚が撮れます。意図せず、「おおっ!」となるアレです。

これが先程の「引っかかり」に重なると、「これで良かったんだな」と思えます。

もちろん、手持ちのLeicaレンズはマニュアルフォーカスです。なので、この一年はオートフォーカスを2,3回しか使ってません。手動でのピント合わせ、目測もまだまだなのでシャッターチャンスを逃すことがしばしばですが、マニュアルだからこそ撮れた写真もたくさんあると思っています。

要するに、fpは「置きに行った写真」が撮れない不便なカメラであり、だからこそ撮れる一枚のためのカメラだと思いました。


さいごに

長々といつもの感じで書いてみましたが、写真の奥深さを知った一年であったのは言うまでもありません。

そしてそれが移動制限のおかげであったというのが、皮肉にもこの一年だからこそできた良い経験になりました。

写真は誰でも簡単に撮れます。だからこそ、おざなりにできてしまうのもまたしかり。もちろんおざなりでも良いのです。そこが写真の間口の広さだと思いますが、しかし深く落とし込もうと思えばどこまでも共に心中できます。

そんな写真ですが、学べば学ぶほど、撮れば撮るほど、面白くなっていきます。

これからも色々と挑戦していきたいです。


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