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【短編小説】神本町漱石通り「鏡子の家」

※エッセイ風フィクションです。私の体験や意見が書かれているわけではありません。

神本町じんぼんちょうはシェアワールドとしてお使いください。

 カール・マルクス通りにローザ・ルクセンブルク通り。ベルリンの真似事をしたいのだろうか。神本町じんぼんちょうの都道にも「漱石通り」という名が冠されることになった。神本町にゆかりがあるのは漱石だけではないだろう。ポピュラリティに弱い役人の感性が遺憾なく発揮されている。

 神本町漱石通り、「Waterstones」という有名な本屋の裏に「鏡子の家」というカフェがある。先代から受け継いだ店舗を最近リノベーションしたらしい。おかげで京都のスタバよりも個性のない外観になってしまった。

 中に入ると、2代目の女性店主が出迎えてくれた。頭には赤いバンダナを巻き、黒いエプロンをしていた。エプロンには西洋風の邸宅が白線で描かれていた。カフェの外観というわけではないらしい。先代の店舗もこんなに豪華ではなかったはずだ。
 店主は「いらっしゃいませ」と私に一声かけると、店を出る老人の会計にまわってしまった。

 席は自由でも怒られなさそうだ。店内を見渡す。
 右側はカウンター席になっている。直上には黒板風のメニュー表がそなえつけられていた。真ん中は丸テーブルが三席と長方形のテーブルが二席。左側にはモザイクタイルで描かれた赤富士の絵が飾られているソファー席があった。(カフェなのに銭湯みたいなセンスだ。)
 私は左側の隅のソファー席を選んだ。ここだとあまり死角が生じない。ファッション用のコーヒーと子供舌用のココアを注文して、じっくりと店内を眺めていた。

 カウンター側には二人の女性が座っていた。子育てに一段落して、文化的活動に精を出す余裕がありそうな見た目をしていた。
 テーブルには『ロミオとジュリエット』が置かれており、これから観にいく演劇の予習をしているようであった。
 うち一人は文化資本が潤沢なようで、『ロミオとジュリエット』のあらすじを話しているものの、もう一人は飽きてしまったらしく、話題はすぐさま演者の顔のことになった。主演俳優は宝塚やBTSのメンバーと比較され、微妙な扱いをされていた。ライバルがあまりにも強すぎた。

『ロミオとジュリエット』くらいで文化資本が潤沢だというのは大げさではないか。そうお感じになる方もいらっしゃるかもしれない。
 しかし世の中はそういうものだ。『吾輩は猫である』もタイトルしか読まれないのが関の山である。シェイクスピアを読んでいないことは珍しいことでも何でもない。

 ところで、なぜ反対側に座っている人の会話が聴こえるのか。私が地獄耳だからだ。

 丸テーブル席の奥まったところには、上京したての大学生が座っていた。
 パーカーとチェックシャツにジーンズ。理工系の学生のセンスを凝縮したかのようなファッションだった。右脇には大きな黒いリュックを降ろし、左脇には四角に膨らんだ古本のビニール袋を置いていた。中には戦利品が入っているのだろう。
 大学生は古本屋の袋からフォークナーの単行本数冊を取り出すと、表紙をまじまじと眺めていた。そして、適当なところから中を読みだし、そこから数ページめくると袋に戻してしまった。

 これは正しい判断だ。
 カフェでの読書は基本的にファッションである。その中身はなんでも構わない。腕に対する負担を考えると文庫本の方が望ましいし、万が一にも汚れたら困る。古本にはブックカバーもつかない。分厚い単行本は図書館か、家で読むものであって、カフェではそっと取り出して眺めるのが丁度いい。

 角型のテーブルにはラフな恰好をした老紳士とワイシャツ姿の男性が対面して座っていた。机上にはMacbookと大量の資料が広げられていた。何かの編集会議なのかもしれない。
 はたして老紳士は何者なのだろうか。人文学系や社会学系の名誉教授なのかもしれない。あるいは、在野で活躍してきたノンフィクション作家ということもある。その素性は知れないものの、ノモンハン事件を話題にしているようだ。これ以上は聞いたことがない固有名詞が並び、よくわからなかった。自分自身の教養のなさを痛感する。

 しばらくすると、隣のテーブルに大学生のカップルが入ってきた。女子学生は店内に入ると早々レポートの執筆を始めた。Wordの仕様に愚痴をこぼしながら、素早くタイピングをしていた。
 一方で男子学生はSwitchでポケモンをやっている。自分が必死にレポートを書いている横で、彼氏がポケモンをしていたら激怒しそうなものだが、事情は異なるようだ。
「CSぶっぱでよろしく」
 男子学生はポケモンの育成をやらされていた。面倒臭いことは下請けにやらせる。綺麗に言えば、アウトソーシングする。ゲームであっても同じことらしい。
 私は2000年代の自称知識人の発言を思い出した。よく「仕事はゲームになる」と唱えていた。だが、実際に起きたことは逆だった。そんなことをしみじみ考えていた。

 隣のテーブルに誰かがいる場合、私はココアではなくコーヒーを飲む。最低限の見栄を張るためだ。しかしコーヒーは苦いから一気には飲めない。なので、チビチビと飲みながら文庫本を読むことにしている。
 今日はフランツ・カフカの『城』の続きだ。雪の中で役所にたらい回しにされる測量士の話である。もちろん待たされるのは、外で、だ。600ページ超もあり、役人にたらい回しにされている気分を、読者も追体験できるのが『城』の魅力だ。

 隣に座っていたカップルの女子大生が乱暴にパソコンを閉じた。執筆に行き詰ってしまったらしい。
 彼氏のSwitchをのぞき込むと、ノルマを達成していないことに文句を言っていた。「わたしが書き終えるまでに2体育成しておいて、って言ったよね」とのことだ。あからさまに怒鳴りはしないが、怖いのは確かだ。
 その後の空気は最悪だった。二人は沈黙しながらケーキを食べ終えると、早々にカフェを出ていってしまった。別れるのも時間の問題だろう。

 隣のテーブルが空いたので、私はコーヒーから解放された。見栄を気にせずにココアを飲み始める。ココアは少し冷めてしまっていたが、それがかえって心地よい。熱い飲み物は舌が受けつけないのだ。

 いつの間にか、カウンター席の女性二人もいなくなっていた。開演時間が近くなったのかもしれない。

 上京したての大学生がいた席には、休暇中のビジネスマンと思われる三人が座っていた。ある男性が自分の部下について話をしはじめた。

 部下の出してきた案が、従来のプログラムとさほど変わらず、再提出させているところらしい。「『お前のやっていることは時間の無駄だ』と、どう伝えるか悩んだ」と笑っていた。この程度の愚痴ならありふれている。

 話題は”車輪の再発明”に移った。世の中で一度発明されたものを自力で発明してしまうのは手間だ。男性はそういった非効率を”車輪の再発明”として嫌っていた。あるいは世の中全体がそうかもしれない。技術の情報共有が当然となった現在では、そういった価値観になるのも致し方ない。

 車輪の再発明から、とある高校生の話になった。試験中に数学的帰納法を自力で発見した高校生の話だ。私もテレビで見たことがある。
 その男性は、当時同級生であったらしい。彼はその同級生と同じ大学に進学し、その人よりも成績が良かったことを自慢していた。

「俺はアイツよりも良い給料をもらっているんだぜ」

 嫉妬にも等級はある。情熱に転化できている嫉妬は高級であり、見苦しくない。オブラートに包まれた嫉妬は中級だ。しかし今のはたいへん見苦しい低級な嫉妬だ。剥き出しになっている点が非常によろしくない。自慢とブレンドされている点もマイナスだ。
 その証拠に連れ立っている二人の男性も反応に困っていた。

 コーヒーとココアの残りを一気に飲み干して、私は店を出た。大体900円。

【完】

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