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華厳とエシカル

社会哲学としての仏教のうち、「華厳」には世界の全体性というか、システム思考的な要素があるらしいと聞いて読みだした『華厳とは何か』。

第一章にある「そうした問題意識を自覚するとき、仏教の縁起観、とりわけ華厳の時間・空間双方に展開する重重無尽の縁起の思想は、何か未来の世を開く世界観のヒントを与えてくれるのではないか」をいう一文に期待が高まる。

EDAYAで言い続けている『「わたし」と「社会」のリ・デザイン』、すなわち「わたしと社会は時間的・空間的につながっていて、わたしが変化をすることで巡りめぐって世界が変わり、それが還ってきてわたしもまた変わる」という思考とは近似していると思える。

「縁起」という言葉が昨今どのような印象をもたれているのかわからないけど、「信貴山縁起」みたいにことの来歴と全体像、ある種のシステムをあらわし、さまざまな人・もの・こととのつながりを示すものなら、作り手や環境など多様なつながりを意識し影響を考える「エシカル」は、「縁起」を考えることなのではないかと思う。

「エシカルファッション」とは、「縁起のいい服」を着ること。

と同時に、華厳の本を読んでいて気になるのは「わたし」という存在について。「エシカル」を「つながりを想い、これからを選ぶ」ことと説明をしているけど、そこに必ずあるのは「わたし」は何者で、何を選ぶかということ。

仏教という社会思想には、「わたし」はあまり出てこない気がする。というか「わたし」を手放すことが肝要なのだろう。であればその点は「エシカル」とそぐわないのだろうか。

『華厳とは何か』は仏教的漢字のつらなりが多くて、基礎学習の至らぬ浅学者にはつらいけど、「わたし」はどう在るのか、もしくは無いのかを考えながら、重重無尽の「縁起」というものに触れてみようと思う。

やっぱり仏教って面白い。。

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