政治的現実

 政治ほど、人がそれに対して夢を抱いて、それが人々の抱いた夢に対して現実を無慈悲なほどあかさまに返してくる現象は無い。

 この頃、石橋湛山の名前を目にすることが多くなった。この人があのまま首相を続けていれば、という夢が語られる。
 わたしはたまに保守派が神格化している吉田松陰や西郷隆盛が岸田さんに代わって総理大臣になったら、という想像をして、いやな、声を出さない笑いを笑ったりしている。
 日本では誰かが総理大臣になると、マスコミが支持率を調査して、それは判で押したようにとても高い。国民は期待していると報じられる。
 その国民は、前の首相にいたく失望しているのが常だ。その失望をおぎなうという形で新しい人が首相になるから、期待が高いのは当然だ。
 けれども、その期待は必ず裏切られる。首相就任時の支持率の高さは、墜落するかのように急速に落ちていくために高い場所に出発点を設定されている遊園地の遊具を思い出させる。

 どうして支持率は落ちるのか?

 もし、石橋湛山だったら高い支持率はそのままだったのだろうか?
 敬天愛人の西郷隆盛なら日本国民はエクスタシーの高みに浸ったままベッドで愛される女のような歓喜の嬌声をあげ続けながら日常生活を送る国になったのだろうか?

 支持率の最初の奇妙な高さと、就任後の急激な下落は、国民の要望に原因があるような気がわたしにはする。
 前の記事に書いたように、科学技術によってパン(衣食住)のみならずケーキ(福利厚生)までもが政治によって供給されるようになると、歴史の必然として、民衆に心の革命が起きる。
 政治に幸福の実現を求めるようになる。あらゆる政党は、幸福実現党となる。

 現実の政治は、実際の生活をしている人たちの利害の調整、それも直接的暴力を使わないという原則を科した調整だ。だから、形態としては、同一の利害を持った人々の集団が社会を構成し、それぞれの集団がその成員の数を政治力として発揮する。議会政治であるかぎり、各集団の利害を代弁する政党もしくは政治家に、成員の(つまりは国民の)主権の行使を委託する。
 小集団が乱立することが大切だ。一国に一集団だと、論理的に、議会制であっても、独裁となる。二つ以上の利権集団が存在すれば、論理的には、民主制が可能である。

 いわゆる民主主義は、殴り合いや暗殺によらずに利害を調整しようという制度だ。
 ところが、イギリスやアメリカは民主主義を掲げて自国の利権を拡張し他国を侵略し他民族を殺戮し人権を奪って来たから、この民主主義を制度ではなく、世直しの方法(もしくは世直し完了後の社会)と強弁する必要があった。

 もっといい世の中になってほしい、そうすれば幸福になれるというのが、心の革命以後の民衆の間違った現実認識であるから、世直しの方法があると聞くと飛びついてしまう。そして、ほんとうの民主主義が実現されたら、誰ひとり取り残されることのない、差別も偏見も貧困もない、平等で豊かで自由な、優しい心の満ち溢れた社会になると聞けば、なにがなんでも民主主義が正しいと信じるのは当然だ。

 ふたたび陰鬱な現実に戻れば、実際の社会には、自分と自分の家族のことしか考えていない人が暮らしている。わたしたちのことである。私利私欲と「今だけ金だけ自分だけ」というのが人間の現実の姿だ。この姿を鏡の中に見るのを拒めば、他人や社会の中に醜い姿が見えてくるだろう。

 どうやら、醜い、とは「見に、にくい」、見るのが難しい、ということのようだ。自分の醜さは、他人の中にしか見ることができないらしい。



 さらに、いわゆる庶民の中に醜い現実を見ると、自分の中の醜い現実にも気づいてしまうので、ふだんは会うことの無い金持ちや政治家といった人たちに現実の醜さを投影することになる。
 金持ちや政治家たちは、私利私欲と「今だけ金だけ自分だけ」で生きている。そう見れば、まったくその通りである。決して間違ったことは言っていない。

 心の革命以降の民衆は、幸福の追求の中に私利私欲と「今だけ金だけ自分だけ」という自分の現実を放り込んでしまうので、躊躇することがなくなる。ロジックが整備されたから、ためらないがない。つまり、こうだ。我慢するとか分を知るとか自分は後回しにするとか、そういう旧道徳はすべて自分が損をすることに繋がる。そして、その損害の実体は、ブラック企業にサービス残業をさせられてそれを生き甲斐としているようなバカで哀れな社畜の生き方だ。そういうことで整理できる。

 心の革命から生まれた民衆の政治に対する要望は、幸福の追求の権利の保証にとどまらず、幸福の実現だ。
 幸福の追求と実現、それらをもたらしてくれそうな政策を掲げるとマスコミが取り上げて、国民の人気があがり、総理大臣になれる。
 そして、当然、実際の政治が始まると、失望の連続となる。

 最初の問いかけにもどるが、もし、石橋湛山が岸田さんに代わったら、幸福の実現は成就するのだろうか?
 この世にいない人をあげて想像しても詮無いことだから、わたしの好きな(好きなだけでなく、命を捨てても日本を救おうとしている男気には心から感嘆している)山本太郎氏や神谷宗幣氏が首相になれば、どうなのだろうか?

 現代の吉田松陰である神谷宗幣氏、敬天愛人無私の人・山本太郎氏。
 日本はきっと素晴らしい国になるのではないだろうか?

 ミギとヒダリのバランスを取るために、山本太郎氏や神谷宗幣氏のふたりにダブルキャストで日本の総理大臣になってもらう。
 「政治は中道をいかなければなりません」とヒトラーも言っている。

 そうすれば、心の革命を経た民衆の心も、ついにやすらぐような政治が始まるのだろうか?
 たぶん、史上最高となるだろう支持率は、その後、下がることはないのだろうか?

 神谷宗幣氏が、小集団の特定利害の代表ではない理念政党こそがほんとう意味での政党だという意味のことを参政党公式動画チャンネルで言っていた。日本では公明党。母体の創価学会の世直し理念を政治の世界で実現し、国立戒壇による日本及び世界平和を目指す政党だ。
 イギリスでは政治とはそういうものなのだそうだ。

 農家の利権やサラリーマンの賃上げとかいった個々の私利私欲から離れた「世直し」を掲げる政党こそが本来の政党であるということらしい。

 わたしの意見はこうだ。
 世直しは、政治と真逆な考え方だ。
 政治は、現実をあるがまま認めたうえで、変えられる部分は変えていき、どうしようもないところは目をつぶるという、わたしたちが俗世で普通にやっていることと同じ、少し気の滅入る、やりたくもない作業である。

 世直しには、理想図がある。西洋のお城の写真をワンルームの壁に貼って、いつかIT事業かキャピタル投資で大金持ちになってこんな家に住むんだと志す大学生のような、生き生きと明るく、その若く希望に満ちた、しかし現実の生活は清貧ともいえるくらい貧しく無名な姿、それは見ているだけで、自分の現実を一瞬にしろ忘れさせてくれる爽やかさがある。
 
 ヒトラーやレーニン・スターリン、そして毛沢東などといった人が世直しという精神運動を政治にもちこむとどうなるかを教えてくれた。

 民主主義は考えられる限り最低の政治制度である。金銭的に腐敗している、利権がうずまく、名利だけが尊重される、なんのスピリチュアルな理想も無い、単なる利害調整の面白くも無いゲームである。
 民主主義のもとでは人々はただ利権のためだけに政治を行う。
 それでも民主主義に代わるものはないとされるのは、分断と憎悪、暴力、殺戮、監視、収容所、思想教育などを排除するには、民主主義しかないからだ。
 それが、わたしたち人間という政治的動物の現実だ。

 わたしたちはすでに政治的動物としての最終的な進化段階に達している。
 この先には何もない。
 先に目指すものが無いという現実ほど苦しいものはない。
 だから、現実の憂鬱を晴らすために、世直しの夢を見ることがやめられない。

 もし、ただ夢見るだけでなく、世直しを求めて政党や団体が社会的な勢力となって政治を動かせばどうなるか?
 分断と憎悪、暴力、殺戮、監視、収容所、思想教育のうずまく政治段階に逆どもりして、わるくすると社会は滅亡する、というのがわたしの想像だ。


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