歴史は事実に基づいた物語
だいたい専門家を自認する人は面倒くさい人が多いが、歴史の専門家はその中でもone of the mostメンドクサイといふ感じがする。
なんでかなと考へてみたら、わたしが会った歴史の専門家は(素人歴史愛好家も含めて)自分は真相を知ってゐると思ってゐるらしいからだ。
あなたの知ってゐる高校や予備校の歴史の先生を思ひ浮かべてください。みんな茂木誠氏みたいな顔してるでしょ( ̄▽ ̄)
かういふ人は、科学の専門家にもゐるが、科学の領域なら、わたしたちの実生活にはあまり実害はないと思ふ。だが、歴史は、わたしたちの日々の暮らしと地続きになってゐるから、必ず害がある。
地続きといふのは次のやうな意味だ。
暮らしの中で、何気なくものごとを判断したり感じたりすることは、歴史認識と切り離すことはできない。
たとへば、パスタを食べるときでも、イタリアの歴史の中の出来事である・ムッソリーニの最後を、吊るされた後に何をされたかを記録した動画も含めて知ってゐる人は、知らない人とは味はいが違ふと思ふ。
別に、知ってゐると不味くなるといふ単純な話ではない。ますます美味いかもしれないが、パスタは
・イタリアの歴史を知ってゐるか知らないか、また、
・ますます知るか、
・すでに知ったことより知ろうとしないか、
さういふことで、味をどう認知するかは変化すると思ふ。自覚する人は少ないだらうが。
そんなふうに毎日の暮らしにまで影響を与へてゐる歴史だが、歴史は事実に基づいた物語、なんならフィクションと極言してもいいと思ふ。
さう思ふやうになったのは、ちょっと本腰を入れて日本の近現代史を調べ始めてからだ。日本の近現代史を知ろうとすると、西洋の近現代史のことも避けられなくなる。それらも含めて、事実に基づいたフィクションの山だと感じた。
歴史家、つまりは作者の数だけの物語がある。
これがわたしの正直な印象だ。
歴史に関心を持つ理由は、
日本と日本人とは何かを知りたい
からだ。そして、どうして知りたいかといふと、日本に生まれ日本語を母語とするわたしとは、
日本人としてどう生きるべきかを考へないではゐられないからだ。
(「日本人とか何人とかにこだはる時代は終はりました。きみたちが社会を担ってゐる二十一世紀には、国境や民族なんてものは無くなってゐます。みんな平等で平和な未来が待ってゐます。その時、君たちは地球人です」と小学校ではさんざん教育してもらったのだが)
素人のわたしは「歴史を調べる」などと偉そうなことを言っても、専門家に頼るしかない。
専門家の本を読みだして驚いたのは、専門家でも、政治的な話をすると、ミギやヒダリの思想を持ってゐるといふことだ。
そんな思想的片寄りの或る人の研究は信用できないと思った。
わたしは子供の時からミギ寄り思想だったので、自分の思想によって見えなくなってゐる歴史の真相、できれば事実を知りたかったのだ。
しばらくして、それは無理だと思ふやうになった。
これって死後の研究と同じかもなと思った。
死後の研究、つまり死んでも魂など何かしら死を超えて続くものがあるのかどうか、それを研究すると、ウィリアム・ジェームスの法則といふものにぶつかる。
ウィリアム・ジェームスは、心霊研究に真摯に取り組んだが、ついには、次のやうな結論に至った。
それを信じたい人に信じるに足る材料を与へてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠は無い。超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている (ウィキペディア『ウィリアム・ジェームス』より)
日本はいい国だ、日本人は優れた民族だ。日本の歴史は素晴らしい。
それを信じたい人に信じるに足る材料を与へてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠は無い。
どんな歴史が見えて来るか。
しかも、それが紛れも無い事実として見えて来るか。
それは、わたしたち一人一人が何を信じたいかによって違って来る。
「バカなことを言ふな。歴史学はサイエンスだ」
といふ専門家の叱声が聞こえて来る。
・・・・・・・・・・付記・・・・・・・・・・・・・・・
この記事を書いた動機は、参政党だ。
党員が「おはよう」といふ文字のあるTシャツを着てゐることがある。
長い間、わたしは、あれを普通に挨拶だと思ってゐた。アホである。
あれは、覚醒しよう、目覚めようといふ並木さんの呼びかけと同じなのだ。
政党の政治的プロパガンダに突っ込みをかけても意味が無い、大人げないが、あそこは国民政党だと自称してゐる。だから、共産党の党員が「世界中が共産主義になれば、国家のない、したがって戦争もない平和な世界になる」と信じてゐるみたいに、自分たちは歴史の真相を知った、目覚めたと本気で思ってゐるのかもしれない。
歴史に関して、信じることは危険だ。
自分の信じたいものを見つめて、そこに留まるべきだと思ふ。
グルジェフみたいに「人類はみな眠ってゐる」なんて、自分だけ目が覚めてゐるやうなことを言ふ人は、そんな夢を見てゐるのだ。
わたしたちは、みんな、それぞれが夢の中にゐる。
わたしは、さう考へてゐる。
目が覚めるときは、死ぬときだ。
そして、そのとき、夢だった現実を振り返ることのできる・なんらかの意識的なものがあるのかどうか、わたしにはわからない。
あってほしいですけど。
だから、ありそうな情報にはビビッと反応します。
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