わたしの信仰

 宗教とは、現実に対するレジスタンス運動です。
 あるがままの現実ではなく、わたしたち人間はなにか五感で捉えられる現実を超えた「意味」や「価値」がほしい。
 その願ひを、教祖と呼ばれる・文才のある人が言葉にしたとき、人が群れ集ひ、信者となり、結果として宗教といふ、歴史をふりかへれば怪物といっていいものが生れます。

 宗教は奇妙ですが、宗教を必要とする人間の気持ちは素朴で単純なものです。
 ようするに、みんなと一つになりたいといふことです。
 教会などの一定の場所に、みんなで集まって同じ価値観や希望を持ちたいといふ欲求。

 この欲求は強さによっては、さまざまなデモ行進への参加、参政党やれいわ新選組などの政党の集会、ライブ会場やサッカーの試合の観戦によっても満たされる。
 けれども、その欲求の異常に強い人は、宗教くらゐの求心力の強い集団が必要になる。

 教義は自分の生活の根本から規定するものでなければならない。そして、同じやうに規定された「信徒」や「同志」と共に生きて共同体を築けたとき、信者は「救はれた」と感じる。

 それが共同幻想でないことを証明するためには、伝道が必要となる。
 「一人でも多くの人に真理を知らせたい」

 人間は、人のために何か重大なことを自分はしてゐると感じるときに、生きてゐる実感を持つことができる。
 自分のためだけに生きてゐては、自己存在の底は抜けたまま。
 欲しいものをかたっぱしから手に入れて、人目を気にせずやりたいことをやって自分の好きなように生きてゐても、結局のところは、虚しい。 
 自分といふものは、自分を超越するところにしか自分を見いだせない奇妙な意識だ。

 わたし自身も、現実だけではとても生きていけない動物、つまり人間なので、宗教にはずっと惹かれてゐます。
 けれども、ともかく「みんな」「我ら」といふことが苦手なので、独りで宗教を持てないものかと考へ続けてきました。

 それで、神道にいきつきました。
 神道といっても神社にはまったく関心はありません。

 巨石祭祀を調べてゐるうちに、自然に対する畏敬、畏怖といったものは、ぐるっとくくって「神道」としてしまっていいのではないかと思ふやうになりました。

 神道においては、神々も自然から生まれ、自然の中で死んでいきます。だから、神道といふ名前はミスリーディングですが、一神教ではないことは伝へられると思ひます。

 一神教は、人間を神とつなぎ、その神とつながった人たちを束ねます。つまりは、群れをつくる仕組みです。
 わたしは、わたし独りの、自分の信仰をさがしてゐます。
 わたしが信じるものは、他の誰かの教義の中にはありません。

 現実を超えるものは、聖書や教義やチャネリングの中には無い。
 非現実性は、自然といふ現実の中に感じるしかない。
 といふのがわたしの立場です。

 目をつぶれば、かつては幽霊が見えたし、今なら宇宙人やUFOが見えるでせう。頭の中を見てゐるからです。

 わたしは、目をあけて、自然といふ現実を見て、そこに神秘や神聖を感じようとしてゐます。

 

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