空の神道・おまけ
わたしの知り合いの起業家があれこれビジネスをしたあげく、宮司(正確には宮司補佐の権宮司)になっています。会社や学校を経営しながら、ほとんど廃墟と化す寸前までいっていた地方の山の中の神社を、あの手この手で再建。今では地域住民の参加する夏祭りも復活させています。さすが敏腕なビジネスパースンだ、と感心しています。
あんまり書くと、どの神社かを特定されてしまうので、これくらいにしておきます。
言いたいのは、神官になるときの修行の話。
中年の彼にはそうとうきつかったそうです。
なかでも禊ということで冬の川に浸ったときは、死ぬかもしれないと思ったよし。
わたしは思うのですが、過去には禊で死んだ人もいただろうと思います。昔ながらの修行には、事故死はつきものだった。下手をすると死ぬこともある、だからこそ、わざわざ修行と言っていた。そうでなれば、訓練とか研修とかいうことですむと思います。
しかるに、将来、この禊で心臓麻痺を起こして人が死んだら、禊は夏にやることになるのでしょうか?
川では、やはり危険が伴うので、市民プールでやることになるのかも。
さらに、禊の形式がもっと合理化されて、コップの水に指をちょいとつけるといったものになるかもしれません。
もっと言えば、穢れを払うという考えが自体が、人権思想的にはよろしくないとして、廃止されるかもしれません。
これからのグローバル時代の地球文化の一つとして神道なら、そうなるでしょうね。
グローバル文化の根幹は、西洋的な人道主義、ヒューニズムです。
人間中心主義、そして、その場合の「人間」とは、個人のこと。
グローバル文化ではない、特定地域の、伝統に根差した、特定民族の文化は、この二十一世紀の文明から見ると、どこかで発展を止めています。
例えば、日本の相撲は、日本の文化の一つですが、これから相撲の技が工夫されてバックドロップが採用されるということはない。
スポーツとしての相撲では、髷を結わなくても、できる。また、競技者の裸に締め込み一本だけというスタイルは改善されて、文明人が当惑しないように、半ズボンを着用した上からマワシを付けている。女性が参加するにあたっては、裸で行うこともやめた。
こういう進歩は、文化としての相撲には無い。
髷を結うのをやめただけで、それはもう相撲ではなくなる。
特定の地域の特定の文化とは、そういう妙なものなのです。
なんだから、珍しいだけで見物人が来る、パンダみたいなものに近いのかも。
生きている文化は変化していく、という考え方でいくなら、相撲や落語や能楽といったものは、西洋のクラシック音楽と同様、死んでいる。フランスのバレーも死んでいる。
もう、変化も進化もしない。
科学技術による文明の進歩が起きるまでは、文化はおおむね生きたまま、文明とともに歩んでこれた。
文明の進歩、変化と共に、文化の進歩や変化も起きていた。
それが、十九世紀くらいから両者にずれが出て来て、二十世紀になってからは、いわゆる工業先進国においては、文化は完全に、文明開化の急進展に取り残されている。
この取り残された文化。各国、各地域の、歴史や伝統に根差した、骨董品のような文化たち。
それらを、国連の文化機関などをISOとして、国際標準化していく作業が、もうすぐ、始まるでしょう。
無害な文化遺産として認定されたものが残り、ヒューマニズムに反するもの、人権を損なうものは、適切な改良処置を受ける。自由人権民主主義の観点から見て箸にも棒にも掛からぬ文化は、廃棄処分になるものもあるだろうと思います。
先の『空の神道』の記事で取り上げた國學院大學の先生の書いていることは、このグローバル文化のISOの認証を取れるような神道にしていこうという決意表明だと思います。
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