映画『イコライザー』で考えた「男の中の男」

 男性のヒーローとは、「人間的な弱さ」を超越している男だ。
 典型は、スーパーマン。
 人を超えてる、超人。

 男にとっての「人間的な弱さ」として第一に出て来るのは、臆病だ。
 だから、ヒーローは勇敢な男でなければならない。
 臆病は卑劣を正当化する。
 正当化するには言葉が必要だ。
 だから、言葉を弄して理屈を並べ立てるインテリは、自分の卑劣を正当化できるので、ヒーローにはなれない。臆病風に吹かれて逃げた理由を、人が納得できるものにする。
 インテリは計算高いから、ヒーローになれない。最終的に自分が損になることは、しない。
 一方、ヒーローは、見る角度によっては「愚か」である。と言うのも、自分の利益を度外視するどころか、損をしても行動するからだ。

 それで、ヒーローにはあまり本を読んでいるような男は出てこないのだが、映画『イコライザー』の主人公は常に本を携えている。

 男性としては、ヒーローが「男らしい」だけでなく「知的」でもあれば、それほど嬉しいことはない。
 現実には両立しない。そもそも「男らしい」ということだけでも、実は、現実には存在していないので、ふたついっぺんに求めるのはいくらなんでも強欲すぎる感じがして遠慮してしまう。
 
 けれども、デンゼル・ワシントン氏という俳優を得て、わたしたち男性の夢を臆面もなく、映画で展開することできた。

 ワシントン氏は、いったん表に出ると誰にも止められない暴力性をどこかに秘めていることを感じさせつつ、顔つき言動はいかにも知的であり道徳感にあふれている不思議な人物を造形できる。
 男の性欲を下品なくらいあからさまに刺激する肉体を持ちながら、けがれを知らない幼心を持つ少女がその肉体の中ではにかんでいる女性―を体現するマリリン・モンローの男性版のような俳優だ。

 男にとっての「人間的な弱さ」として、臆病にも優るとも劣らないものは、性欲だ。
 『イコライザー』という映画の中では、主人公は十六歳の娼婦を救い出す。ヒーローではない男でも、女性を助けることは少なくない。
 会社で女性の仕事の補佐を買って出るとか、悩んでいる女友達の相談にのるとか、男は女性に親切だ。
 ただし、いわゆる「下心」を抱ける女性に限る。
 不倫のきっかけは、親切心だ。

 じいさんだって性欲には振り回されている。
 自分の娘が残した孫娘の世話をしているうちに、性的な「いたずら」をする祖父というのは、ざらである。
 そんなおじいさんは、とんでもなくいやらしそうな、人でなしの顔をしており、めったにいるものではない、と思ったら大間違いだ。

 おじいさんも最初は、親を亡くした孫娘を心から哀れに思い、献身的に世話をしたはずだ。そうしているうちに、ムラムラとくる。
 そして、ムラムラすると抗えない。
 老いも若きも、性欲に勝てる男性はいないのだ。

 映画『イコライザー』では、主人公がマフィアの組織から助け出した少女は、主人公に助けられたと知らない。が、それでも、いかにも売女めいた
外見に囚われず
まっすぐ心の中に歩み入り
その心の願いに寄り添い
生まれ変わる勇気を与えてくれた人物として慕っている。

 少女は、心の中で「あなたが好き」と何度も何度も言っており、「あなたのそばにいたい」と願っている。そして、それを口に出せなくて、泣きそうになるたびに微笑みながら、目で懇願している。

 こういう状況になれば、男なら、「なんとこの少女はけなげで可愛らしいのだ」と感嘆するだろう。そして、ムラムラしてくる。
 もちろん、本人としては「少女を愛してしまった」と言うだろうし、本気でそう思っているだろう。

 野暮なことを言えば、ほんとうに愛しているなら、性欲の対象にはしない。
 こういう愛を貫けるのは、映画の中のヒーローだけである。

 いじめられたり、親の愛情をしらなかったりして自分を呪っている少女に対して親身になって相談に乗り、励まし、その少女に自分の人生を取り戻させる学校の先生も多い。
 そして、たいていは「愛してしまう」のである。
 ヒーローだけが、愛という名で隠してしまおうとする性欲から超然としている。
 これは、人間わざではない。
 だからこそ、映画の中のヒーローなのだ。
 『カリオストロの城』のルパン三世である。

 デンゼル・ワシントン氏が演じるヒーロー、イコライザーは、少女の願いを重々知りながら、抱きしめるでもなく、キスもしない。
 拳で触れ合うだけだ。
 もちろん、「すぐ先がおれの家だ。ちょっとうちでお茶でも飲まないか?」などとは言わない。
 少女が思い切って頬にキスをしたが、主人公は動じない。
 笑って別れる。そのまま、すっとまた歩み出す。未練がましく少女を見ていたり、急に走り出して呼び止めたりしない。
 普通の男なら、絶対にそうしてしまう。

 イコライザーは、超人である。

 自分の性欲の(普通の男はこういう時「自分の愛」と思い込むのだが)満足より、少女のこれからの人生、少女が女性として生きる未来を大切にしたのだ。

 そんなかっこいいことができる男は、この世には、いない。

 必ず、ムラムラと湧き上がった性欲に引きずられ、少女をベッドに誘い込むだろう。

 性欲に勝てず、みすみす「純潔の乙女」を、単なる「女」にしてしまう現実のわたしたち男。

 そういうわたしたちだから、せめて映画の中、デンゼル・ワシントン氏にはプラトニックな愛を貫いてほしいのだ。

 

 

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