「自分らしく生きる」ことと同調圧力
日本が行った「愚かな戦争」「アジアの人たちに迷惑をかけた侵略戦争」は、その根本的な原因は、日本人に「滅私奉公」の精神があったからだ。
自分がどうしたいかではなく、「みんな」の同調圧力に従ふ。
そんな生き方の人がゐるから、戦争になるのである。
自分のために生きる。
誰かのマネや「かうするべきだ」といふ常識ではなく、自分が生きたいやうに、自分らしく生きる。
気兼ねしたり遠慮したいしてばかりではなく、もっと自分を大切にする。
自分より大事なものはない。
これで終はったら、スキがいっぱい付きそうだが、わたしはいつも通り、逆張りする。
言ひたいことは、二つ。
記事を二回に分けて書くことにします。
ひとつは、自分の好きなやうに生きるのは、孤島にでもゐないかぎり、無理だといふこと。
もうひとつは、一番大切な自分と、「自分の死」の問題。
まず、ひとつ目。
愚かな戦争は、日本人に「自分といふものがなかった」から起きた。
誰もが自分を一番に考へて、自分を大切にして生きる。
さうすれば、平和は実現する。
かう言はれると、さうかなと思ふ。
さうだったら、いいな。
自分を大切にしようと言ふ人たちは、たいてい注釈を入れて「自分を大切にするといふことは、決して利己主義ではない」とする。
利己主義や自己中心主義ではないとすると、「自分を大切にする」のと同じくらゐ、他人も大切にする必要が出て来る。
自分を大切にする人が他人に配慮するのは、他人も「自分を大切にする」生き方をしたいだらうから、といふ理屈だ。
ただ、そのやうに考へだした時点で、自分ではなく他人のことを考へだしてゐるのである。
自分以外にも無数にゐる「自分」たちとぶつからないやうに、「自分のしたいことをする」といふのは、けっこう大変だと思ふ。
アメリカは自由の国なので、自分を大切にする自由があるらしい。
大学などにいくと、上半身裸で講義を受けてゐる男子学生などがゐた。わたしが見聞したアメリカは尖った時代だったので、女子寮の女子学生には寮内では一日中全裸で歩きまはる人もゐると聞いた。
それぞれが自分のやりたいやうにやってゐたわけだ。
ただ、さうすると、さうしてやりたいやうにやってゐる「自分」に対して、気兼ねして我慢してゐる「自分」を抱へてゐる人たちがどうしても出て来る。人の身体の(ふだんは隠されてゐる)部分を間近で見たくない人もゐる。猥褻物陳列罪といふ・へんな響きの法律があるのはそのせいだらう。
和英辞典をひいたら、猥褻物陳列罪は、indecent exposureとなってゐた。
exposureは「露出」。
indecentは「みだらな、わいせつな、下品な、不作法な」とある。
何をもって「みだらな、わいせつな、下品な、不作法な」とするかは、各自の自分によって違ってくるが、法律としては、コモンセンスに落としどころを見つけてゐるやうだ。
common sense 常識。
所謂(いはゆる)常識(コモンセンス)を備へて平生の心掛け迂闊(うかつ)ならざれば世を渡ること甚だ易し 福沢諭吉
常識は普通の事理を解し適宜の処置をなす能力なり 森鴎外
けれども、コモンセンスは、自分らしく生きたい人の敵である。
常識なんてかなぐり捨ててしまへ。
すると、福沢諭吉によると迂闊(心が行き届かない、回り遠く実際に役に立たない)なことが多くなる。世を渡ること甚だ難し、となるだらう。
平たく言へば、自分を社会生活に持ち出すと、何かと面倒なことになる。
さうなっては「自分の損」であるから、社会生活の中で、わたしたちは、ほとんど無意識に、自分が損をしないために適度に自分を抑へて生きてゐるのだ。
他人がゐる限り、「自分として生きる」と言っても、その方針に「他人に迷惑をかけない限り」といふ無粋な条件が科せられるのは避けられない。さうなれば、「自分のありのままの思ひと、ありのままの姿で」自分らしく生きるのは難しくなる。
他人の存在に気兼ねして、自分の思ひや姿を調整しなくてはならなくなる。
だから、自分らしく生きてゐるつもりの人も、現実の社会では、法律や道徳によってがんじがらめにされてゐる。
その不満を日々述べてゐるのが、自分らしく生きようと主張する人たちだと思ふ。
自分らしく生きろといふ本はたくさんある。
精神論ばかりだ。
具体的なアドバイスは陳腐である。
個別に対策を練って、あんまり自分を抑えすぎたり、他人に配慮しすぎたりしないやうにしようなどと書いてある。
「すぎてゐる」つまり、過剰な自己抑制は改善できる。
それにしても、「自分らしく生きる」といふことは、様々な条件を付けないと、無理である。
実際に、どうしたら「自分らしく生きてゐる」ことになるのかを書いてほしい。
自分らしく生きるのは難しい。工夫してゐると、「他人に配慮して他人の要望に沿って生きてゐる」のとほとんど同じになってしまふ。
だから、面倒なことは考へず、
ただただ、自分自分とマントラを唱へながら、日本人の同調圧力を非難してゐるはうが楽なのは確かだ。
さうすると、たまった不満や恨みを一時的に吐きだせるかもしれない。
けれども、すぐにまた溜まる。
前よりもっと溜まる。
結果的には不満や恨みを吐きだす時間が増えてゆき、「自分」を損なふことになると思ふ。
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