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淡路国小社十一座を訪ねる(津名郡篇)②石屋神社

石屋神社(天地大明神・岩屋明神・絵島明神)旧淡路町岩屋

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鎌倉期は、石屋保と言い国衙領であった。国衙領とは国領(公有地)であり、国司(知事や市長)が管理をしていた。『墾田永世私財法』の影響を受けて国司自身の私領となったところも多い。国衙領は太閤検地で解体された。

【由緒略記】

源平合戦の兵火で古記録・宝什が焼失し故事・創建年は不明であるが、伝えられているところでは淡路では最も古い神社であり、第10代崇神天皇の御代(BC96~BC28)に三対山に祀られ絵島明神と呼ばれたが、第11代垂仁天皇の御代(BC28~71)に石屋明神と呼ばれた。

永正7年(1510年)に大内義興が三対山に築城するため現在の場所に遷座。
慶長15年(1610年)に池田輝政、寛政8年(1796年)に領主の蜂須賀候が社殿を再興。現社殿は平成3年に改築。解体した三対山の城の瓦を使った旧社殿もあったようである。

由緒書にはこのように書かれており、一般的にもこのような認識である。
ここで、現在著者が研究している資料から配置図を作ったので見ていただきたい。

配置図

これを見ると、既に三体山の城は無くなっており城山となっているが、築城のために移されたとされる石屋神社がないのである。
近くにあるのは戎社だけである。絵島には石塔があるが、「築城のために現在の場所に遷座した」ならば、戎社が記され式内小社である石屋神社がないのはどうもおかしい。
これから著者が推察するならば、絵島明神として絵島に祀られていたが、廃城後その跡地に社を作り遷座したのではなかろうか。

私は由緒がおかしいと言う気はない。歴史ロマンを述べているに過ぎない。
これを読んだ神社・歴史好きや、その道の学者が詳しく調べてくれる契機になり、地元の若者が興味を持ってくれればと思う。
※2020/01/03に加筆

鳥居の額は、日本三大名筆の小野道風の筆であったようだが、寛政年間に大阪へ修理に出した際に紛失したとの伝聞がある。
玄松子(「玄松子の記憶」http://www.genbu.net/)氏が記載した昔の由緒書では、

二条天皇(第七十八代天皇)長寛元年(1163年)「天地大明神」と勅定せられ神階を昇叙し(以下略)。文化十四年(1817年)又直参を見たり、明治六年(1873年)二月郷社に列せらる。

との追加情報がある。

この伝承が本当で、崇神天皇御代の創建ならば神代ということになるが、崇神天皇は讃岐に流されているので、本当に関係があるのかも知れない。因みに崇神天皇は日本三大怨霊とされている。
垂仁天皇の時代であったとしても同様であり、このような由緒は他に聞いた記憶がない(『古事記』『日本書紀』に記述の日本長暦に基づく。皇紀ならば564甲申~730庚申年)。

源平合戦の戦火で什宝古文書が失われたのが残念でならない。


【意匠・彫刻】

淡路ジェノバライン(旧播淡汽船)から国道28号線を下り、多くの和歌が詠まれた名勝「絵島」を過ぎて、岩屋海水浴場に着くと、大きな門構えに目を瞠る(車は側道から境内の駐車場へ行けます)。

拝殿へ上る石段に「天保九戊戌歳(1838年)八月十四日建立」、国道に面した楼門の石灯籠には「天保六乙未年(1835年)八月建茲」「明和九壬辰歳(1773年)九月吉日」と刻字があり、これを見たときも江戸の後期になり歴史を感じたが、伝承はその比でない。

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神紋は「五七の桐」だと思うが、鰭付拝懸魚(六葉)や唐破風・千鳥鬼には「十六弁菊花紋」が入っている。
「菊花紋」は皇族の花紋で、「十六弁菊花紋」は天皇家の花紋であるが、”神主の長”という意味なのか、何らかの別の理由があるのだろうか?
由緒に習ったのだろうと予想するが、古来より伝わっているのなら由緒が真実味を帯びてくる。

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花肘木や太瓶束に笈形と各部に意匠を凝らした彫刻を配している。

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境内社には「八百萬神社」

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楼門?総門?長屋門?どう呼べばいいのか悩みますが、大きく立派です。
箱棟の熨斗瓦には3匹の龍がおり、留蓋瓦の上には漁師町だからか火消しの意味か、恵比寿様が鎮座している。

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【祭礼・だんじり】

3月に例祭である「浦祈祷祈願祭・浜芝居(恵比寿舞)」が行われる。
恵比寿様と神輿を乗せた漁船が海上を練り進み、五穀豊穣と大漁を祈願して鯛を放流する。神社では豊漁を祈願する恵比寿舞という浜芝居が行われる。

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暑い時分に詣りましたが、高く掲げられた日の丸と浜風で清々しい心地にでした。

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