中内 東海坊 雨山

淡路島を巡り、寺社仏閣・祭・だんじり・彫刻などの郷土史を纏めています。 現在は『淡路十…

中内 東海坊 雨山

淡路島を巡り、寺社仏閣・祭・だんじり・彫刻などの郷土史を纏めています。 現在は『淡路十一小社を訪ねる』『淡路の社を巡りて』『生穂今昔雑記』『生穂の偉人伝』を不定期連載中です。

マガジン

  • 淡路島の社を巡りて

    淡路島にある神社を巡った記録のまとめ。 付近の寺院(旧別当)や祠などを載せているものもあります。

  • 淡路島寺院仏閣散歩

    淡路島内の寺院仏閣を巡っています。 ブログ掲載許可を戴けた寺院から順に記事にしていきます。

  • 淡路十三仏霊場

    淡路島の十三仏霊場を巡っています。 ブログ掲載許可を戴けた寺院から順に記事にしていきます。 開創は昭和52年(1977)3月と近年定められた霊場で、管理は先山千光寺が行っている。淡路島を一周するよう順選されている。13と数が少ないのと、御朱印も用意されているため巡礼者も多い霊場である。

  • 淡路八十八箇所霊場

    淡路島の八十八箇所霊場を巡っています。 ブログ掲載許可を戴けた寺院から順に記事にしていきます。 淡路島内を巡礼する弘法大師霊場である。札所には番を記した石碑が見られる。 番外や奥之院は資料により表記が異なる。

  • 淡路西国三十三箇所観音霊場

    淡路西国三十三箇所観音霊場を巡っています。 ブログ掲載許可を戴けた寺院から順に記事にしていきます。 開創:文明7年(1475) 細川成春 由緒・経緯:養宜城主細川成春が霊場を選別し巡礼したのが始まり。淡路島で一番古い霊場である。四十九薬師霊場も同じ頃に始まったとされる。

最近の記事

淡路島の社を巡りて~第捌社目 恵比寿神社(旧淡路町松帆)

【由緒略歴】詳細不明。江戸中期に描かれた古絵図には「松尾嵜」とある。 神社は見当たらないが、古い時計台のような絵が描かれている。 南西には「狙板山古城」とある。 また昭和39年の『津名郡神社誌』にも掲載はないため、由緒などについて判ることは殆どない。 こちらのブログ『平凡な、おっちゃんの足跡』には西宮恵比寿との関係などが書かれていますが、小生には何とも判断しがたいところである。 鳥居に定礎があり、1971年に漁協が奉納したとあるので、漁業の神様である恵比寿さまを奉り昭

    • 先山千光寺

      【本山宗派】高野山真言宗 【御本尊・寺宝】淡路八十八箇所霊場 第一番 千手観世音菩薩 淡路西国三十三箇所観音霊場 第一番 千手観世音菩薩 十三仏 第一霊場 不動明王 【由緒略歴】【意匠・彫刻その他】【法事・行事】【編集後記】

      • 寳涌山本福寺(柳澤乙)

        【本山宗派】真言宗高野西南院 【御本尊・寺宝】大日如来 【由緒略歴】古絵図に描かれていることから江戸中期にはあったことが判るが、霊場札所ではないためその他の由緒略歴は殆ど判らなかった。 半鐘 文化12年(1815)とある。 「ニッポンの霊場」の淡路西国三十三箇所観音霊場の25番 岩神寺の備考欄に、本福寺の管理 とあるが、その辺りは聞き逃したので判らない。 見たところ住職されているようだったので、古い情報なのかも知れない。 大坂淀川に別院があるようです。 詳しくは

        • 医王山圓満寺(旧津名町志筑)

          【本山宗派】高野山真言宗 【ご本尊・寺宝】薬師如来。 『津名町史』によれば、 高さ1寸8分(約5.5cm)で行基の作と伝えられている秘仏で、一木で薬師如来・日光・月光菩薩の両脇仏と十二神将の眷属が刻まれている珍しい古仏。 と記されている。また『淡国通記』に 志筑浦の円満蜜寺に霊験の薬師あり、帰依すれば安産することを得~ と、安産の仏として広く信仰されている。 その他、不動明王像1軸(宝山湛海74歳の筆)、不動尊・金迦羅・勢多迦像等(明沢和尚の筆)がある。 【由

        淡路島の社を巡りて~第捌社目 恵比寿神社(旧淡路町松帆)

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        • 淡路島の社を巡りて
          8本
        • 淡路西国三十三箇所観音霊場
          1本
        • 淡路八十八箇所霊場
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        記事

          生穂今昔雑記⑥

          生穂の祭の特徴生穂の檀尻祭の特徴・他には見られないことを記していく 台指し「台指し」とは、棒ではなく台(棒より下部分)を担ぐ手法を云う。播州では「台場指し」とも云われる。 岸和田に代表される地車(曳き檀尻)型ではこの部分は「泥台」と呼ばれるが、布団檀尻やヤッサ・神輿においては地面に下ろすことは担ぎ手の恥とされる。”泥を塗る”等の諺もあるように縁起も悪いので、「泥台」とは呼ばない。 さて、この「台指し」が、かつて生穂・佐野各組で行われていた。 古老数人の証言によれば昔は8人だ

          生穂今昔雑記⑥

          開 賢次

          明治29年(1896)-昭和43年(1968)濱村 彫刻師(刀號:開 生珉など)・生穂町町会議員など 彫刻師開藤太郎の長男。彫技を父に学び、17歳で父業を継いだ。 父であり師でもある開 正藤と並び称されるその腕前は「開の宝刀」とも評される。 淡路の檀尻彫刻等の他、岸和田市中町地車ほか岸和田・貝塚方面で9台の製作が確認されている。父正藤との共作も含め、島内外に数多くの彫刻を遺している。 生穂では八幡宮(拝殿蟇股)「眠り猫」が有名である。 後年は病弱のため彫業を続けることが

          開 藤太郎

          明治5年(1872)-昭和18年(1943)濵村 彫刻師(刀號:開正藤) 麹製造業 開 友二郎の長男として生まれる。 長じて、飾磨の二代目黒田正勝(数年間生穂濵村に滞在した)の一番弟子となる。黒田一門中興の祖と言われた。 その技巧は超絶且つ繊細で、また遊び心も兼ね備えており、見る者を飽きさせない。 それ故現在でも多くのファンがその彫刻を見るため祭に訪れる。 ※刀號については、開生珉参照 独立してからは、生穂のだんじり製造業 大歳茂平の「大歳屋」と組んで数々のだんじり彫刻を

          生穂今昔雑記⑤

          現在のような布団ダンジリは、いつ頃から作られ始めたのか淡路島でも、どのダンジリが一番古いかは明らかでない。年代が判明する文章等の証拠が既に無いことや、製作年代が伝わっていない等で調査できないのが実情である。 『津名町史(昭和63年1988)』でも町内会に質問状を出し、その回答を掲載しているが、応答したのは少数である。 当時津名町内には約50台あったと思われるが、その内の17台のみであった。 この中で、江戸末期の3台が古いものとなる。淡路島内で見ても江戸末期が最古級である。 ち

          生穂今昔雑記⑤

          生穂今昔雑記④

          旧津名町旧津名町では、『鮎原村誌』に 「享保年間(1716~36)、泉州住吉神社の祭りに行った志筑の者が、 それを真似て作り大歳神社に出した。これが淡路の舁きダンジリの始まり」(著者意訳) とある。 『味地草』『堅磐草』には「舁野台」との表記があったが、これが宝暦年間であるならば、享保年間である志筑大歳神社のほうが早く、“始まり“というのも頷ける。ただ「舁きダンジリ」と「舁野台」が同じ型なのかどうかによって判断は分かれる。 そこで泉州住吉神社(現泉佐野市)の祭やダンジリを

          生穂今昔雑記④

          今岡義之

          元治元年(1864)4月-昭和22年(1947)段 実業家・地方政治家 東京法律学校(中央大学法学部)卒業。 明治23年に初代岡田長吉村長の後任となり、26歳で生穂村村長となる。 続いて33歳で県会議員となる。村長は34年間在職。 道路村長とも呼ばれ、県道室津津名線・津名北淡線・町道堀越線・木戸線・虚空蔵線などを整備した。 淡路改進党の重要人物となり、党勢拡大のため大いに活躍した。 他に、生穂信用組合創設。 村長辞任後の大正の末、全淡自動車会社(路線バス)創設の機運

          樹下快淳(じゅげ かいじゅん)

          明治16年(1883)8月生まれ 中高寺 国学者・史家 雅號:桃泉、理山、白狸 中高寺の池田家に生まれる。五色町下堺の三宝院に養子に入る。 洲本中学から京北中学、第一高等学校、東京帝国大学へ進み、国学を専攻した。 卒業後は文部省に入省。のちに宮内省に転じ、図書寮研修官となった。 歴代天皇の実録を編集し、史学上の大きな功績を遺す。 この間、女高校教授・豊山大學講師を兼務する。 また文才にも秀でており桃泉・理山・白狸の名を持ち、優れた書を多く残している。 在職中、生穂第一

          樹下快淳(じゅげ かいじゅん)

          名前の由来

          というハッシュタグを付けて記事を書こう というのがあったので、小生の名前について記しておく。 俳句なら俳号、茶道なら宗号・庵号、家名・門名は屋号、商いは商号、亡くなれば諡号 などなど、本名以外の名前を持つ機会は意外と多い。 戒名が一番周知のところだろう。 小生がこのブログを初めるに当たり、画家・文筆家が使う雅号を名乗ろうと思い、考えたのがこの「中内 東海坊 雨山」である。 当初は「東海坊雨山」としていた。 しかし、柳生宗家の流祖 上泉伊勢守信綱や柳生但馬守宗矩のように「

          大川真澄

          弘化2年(1846)5月-昭和5年(1930) 生穂高部 教育者・歌人 父・大川渡は国学者であり歌人であった。真澄も賀茂神社の神官が本職であったが国学を修め、和歌特に長唄をよくし、能筆家としても知られるようになった。 師は、伊藤博文から頼まれ最高裁判事を務め、庚申事件も判決した旧東浦町出身の国学者 鈴木重胤。 大川家は代々寺子屋を開いており、真澄は中等程度以上の私塾「養徳学舎」を開き、生穂の子弟を教養した。その内容は藩学に匹敵する高度なものであった(養徳学舎は賀茂神社境内

          生穂名所絵葉書

          ついに!ここまで漕ぎ着けました。 『生穂名所絵葉書』を販売致します。 小生が郷土生穂を調べていたところ、遭逢にも昭和3年に発行された 『生穂名所絵葉書』を譲って戴ける機会を得ました。 昭和3年というと、今から93年前。約100年前の景色です。 昭和3年には、”昭和御大典”と”町制施行”がありました。生穂村から生穂町になった年です。それらを記念して『生穂名所絵葉書』は発行されました。 その絵葉書を高精度スキャンし、超拡大してまじまじと観ていると様々な情報を得ることが出来まし

          生穂名所絵葉書

          井高 今平

          明治14年(1881)-昭和42年(1967)没 生穂八畑 陶芸家 陶號は歸山など 津名郡立陶芸学校(志筑)の1回生。津名郡立志筑陶器学校を出て成功した三輻對(比良虎藏、奥野税)の一人である。茶号を宗山。 初代宮川香山を師に持ち「香山秘蔵の弟子」の一人に数えられ「井高香渓」と名乗っていた。 陶芸学校卒業後、出石陶磁器試験所で出石焼きの技師をしていた歸山は、その時既に真っ白な白高麗を焼く髙い陶芸技術を持っていた。その腕に惚れ込んだ宮川香山(眞葛香山)が門人に迎え、一番弟子と

          岩木喜市

          明治14年(1881)7月26日生-1971没 生穂摩耶出身 摩耶業 正岡子規の弟子である高浜虚子の一番弟子。俳人筆名は「岩木躑躅」。 摩耶業の創始者 岩木喜平(阿波藩主 蜂須賀家の筆頭家老 稲田氏より苗字帯刀免許)の孫・岩木猪之吉の長男である。 岩木家は名家で、代々接骨業を営んでいた。職業に「摩耶業」と書いたが、「まや」が接骨医の代名詞になるほど、四国・紀州・播州にまでその名を知られていたという。 喜市が7歳のときに、父は故あって病母を故郷に残し神戸(阪本村)に移住する。