生穂今昔雑記④
旧津名町
旧津名町では、『鮎原村誌』に
「享保年間(1716~36)、泉州住吉神社の祭りに行った志筑の者が、
それを真似て作り大歳神社に出した。これが淡路の舁きダンジリの始まり」(著者意訳)
とある。
『味地草』『堅磐草』には「舁野台」との表記があったが、これが宝暦年間であるならば、享保年間である志筑大歳神社のほうが早く、“始まり“というのも頷ける。ただ「舁きダンジリ」と「舁野台」が同じ型なのかどうかによって判断は分かれる。
そこで泉州住吉神社(現泉佐野市)の祭やダンジリを調べてみたが、一見ではあまり情報がなかった。
しかしその中で、「担いダンジリ」というものがあった。これは重層唐破風型ではあるのだが、曳くものではなく舁くタイプの珍しいものである。
小生は、志筑大歳神社に出された淡路最初の「舁きダンジリ」は、この「担いダンジリ」のようなものだったのではないかと考えている。
ちなみに、「淡路の舁きダンジリの始まり」とされる大歳神社の祭礼は、大正中期に八幡神社(志筑)の祭礼と合併した(『津名町史』)。
写真は、現在の大歳神社社殿跡(筆者撮影)
その八幡神社には、かつての祭礼を描いた絵馬がある。ここには唐破風型のものが描かれており、これが“淡路最初の舁きダンジリ“かも知れないが、残念ながら下半分は描かれた幕のため解析できず、”曳く“ものなのか”舁く“ものなのかは判断できない。
屋根は一重棟である。住吉神社の「担いダンジリ」は二重棟の画像であったが、昔は一重棟だったのかも知れない。
その他ここには4段の布団ダンジリが2台(書籍によっては5段布団とあるが、実物は4段である)と、八幡丸(船ダンジリ)が描かれている。
八幡丸とは、
宝暦十三年(1763)に曳舟を作り、海に浮かべて祭祀に出していた。その後、台車に載せるようになり八幡丸と命名した。(個人文書)
とある。
ある古地図を見ると、かつて志筑は八幡神社の目前まで内海だったので、八幡神社前の海上で船渡御・渡御祭・船神事を行っていた証左と言える。
「ダンジリがどこから伝わり、どこが起源なのか」に興味のある方は多いだろう。
そこで、現在もダンジリ祭で有名な岸和田について少し記しておく。
岸和田ダンジリ祭の起源
岸和田ダンジリ祭の起源は元禄十六年(1703)、京都伏見稲荷の祭りを見物し、大変感動した岸和田藩主 岡部長泰公が城内三の丸に稲荷神社を勧進し、一般参拝も許可した。稲荷祭にも庶民が参加し、その際に長持(昔のタンス)に車を付けたものを出した。これが岸和田ダンジリの原型とされる「箱ダンジリ」である。
その後、天明五年(1785)に現泉大津から大型地車を購入した。しかし城門を潜れなかったため、それより小さいものが作られていった。
そうである。
少なくとも岸和田よりも淡路島のほうが古くからダンジリがあったことが分かるが、どこが起源なのかはこれだけでは分からない。
近年では沼島にある公民館の床下から「箱ダンジリ」のようなものが発見された。年代は定かでないが、淡路で他にこのようなものは見つかっておらず、岸和田から伝わったのか、将亦岸和田へ伝わったのかは判断できない。
⑤に続く
ヘッダー画像:引用元『志筑町 八幡宮』
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