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医王山圓満寺(旧津名町志筑)

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【本山宗派】

高野山真言宗

【ご本尊・寺宝】

薬師如来。
『津名町史』によれば、

高さ1寸8分(約5.5cm)で行基の作と伝えられている秘仏で、一木で薬師如来・日光・月光菩薩の両脇仏と十二神将の眷属が刻まれている珍しい古仏。

と記されている。また『淡国通記』に

志筑浦の円満蜜寺に霊験の薬師あり、帰依すれば安産することを得~

と、安産の仏として広く信仰されている。
その他、不動明王像1軸(宝山湛海74歳の筆)、不動尊・金迦羅・勢多迦像等(明沢和尚の筆)がある。

【由緒略歴】

淡路島八十八箇所霊場の68番。薬師第47番。
津名町史によれば​

開創年月日及び開創者名、いずれも不詳だが志筑で一番古い寺院だと言われている。

志筑で一番古い寺院というと、思い浮かべるのは志筑廃寺である。
志筑と中田の間にある横入遺跡(弥生時代)が発掘されたが、その上に建っていた寺院は「志筑廃寺・横入薬師」と称される。
この志筑廃寺は調査の結果、淡路最古の寺院(薬師堂)であったことが判明している。”藤原京”(新益京)に供給された土生寺瓦窯跡と同じ胎土の瓦が発見されており、天武天皇5年(679)~持統天皇8年(694)遷都の頃に建立されたと思われる(奈良時代)。然し乍ら江戸後期に廃寺となってしまった。
土地造成や道路開通工事の際に古瓦などが発掘され注目された。
また廃寺にあった本尊薬師如来像がどこに行ったのかも判っておらず、何処かのお寺に引き継がれたのだとしたらそれが解明されるのに注目したい。

境内の石碑などを調べると、

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石灯籠 元禄二年(1689)

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石碑 安政五年(1858)四月

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五段の宝篋印塔 文久三年(1863)

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中興 秀旭上人碑 天保十一年(1840)七月二十三日没

とあった。石灯籠の1689年が江戸前期にあたり一番古い期日になるが、志筑で一番古い寺であればもっと古い期日が刻まれている石碑があるはずなので、再調査が必要だと思われる。

江戸中期の古絵図には、山門左に辯天堂、その奥に稲荷社、その奥が墓処であった。また、境内右隣には「百姓 宇兵衛」の屋敷、境内左の道を進むと圓通寺があった。本尊十一面観音、地蔵と描かれている。
圓通寺の本堂は現在の保育園の辺りにあったと思われるが、今回は未調査である。

【意匠・彫刻等】

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シンプルな山門。左奥には椎の木会 志筑保育園が見える。

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講堂?金堂?(本堂)や僧房(本坊・寺務所・庫裡・書院)などは近年改築したものと思われる。阪神淡路大震災時かも知れない(寺院の伽藍配置や名称は現在勉強中です)。

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向拝(虹梁・蟇股・獅子鼻)は以前の物をつけたのだろうか?

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蟇股は、龍。欠けがあるので若しくは龍亀かも知れない。龍のほうが可能性が高いだろう。

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虹梁木鼻は象。耳が特徴的である。

志筑で一番古い寺院(廃寺除く)であることや、石碑等の年月日から江戸時代頃の物であろうか。江戸後期には志筑にも数名の彫師がいたが、その者の作か大坂彫師の作だと考える。

かつての本堂は現在のような大きいものではなく、寺務所と渡り廊下のような建物で繋がっていた。寺務所裏手には別棟の庫裡?があった。

【その他】

堺の三宝院のように保育園(こども園)を運営している寺院もあり、円満寺も裏に見える保育園を運営していると聞いたこともあるが、詳細は判らない。

【編集後記】

急に思い立って志筑を回ったので、ご住職がご不在だった。しかし奥様がご対応してくださり、「淡路の寺社を回っているが、往く往くはブログ記事にしたいと考えているのですが掲載しても大丈夫でしょうか?」と尋ねたところ、ご住職がご不在であることを教えていただいた。
「それでは、今回は写真を撮ったり調査だけさせて下さい。」と申し出て、見回っていると、態々ご住職にお電話でお聞きくださり快諾を得ることが出来た。

神社と違い、寺院は住職(住居)があるので、小生のように地元民でなく墓参りが目的でもない者が、石碑の周りをウロウロしたり、ブツブツ言いながら字をなぞってたり、梵鐘を眺めたりしていると「何か御用でしょうか?」と不審がられることも多い。当然であるとは思うが、事情を話すと大体は快諾してくれる。

これまで寺院について記事にしていなかったのは、以前動画を撮るために幾つかの寺院を回ったが必ずしも撮影を快諾してくれる所ばかりではなかったからである。その際は業務の一環としてYouTubeに動画をアップしており、書面で撮影許可を出し説明をしていたのだが、それでも動画の公開に慎重になられる所もあった。
その当時は、個人で無許可でブログや動画にしている人は多々存在しており、許可を申し出たほうが断られるのは不条理だなぁと考えたこともあるが、「郷土史家」を名乗る以上は無料ブログであっても寺社に迷惑をかけず、許可を取れるなら取ってから公開しようと考えている。
その点で言えば、寺院には大体住職が居らっしゃるので許可を取れた寺院だけ記事にしていくのは効率的とも考えられる。
逆に神社には神主が住職しているところは少なく、許可を取るのは難しい。神社に関しては許可を取れずに既に掲載しているところも多々あるが、記事にしたことを喜ばれこそすれお叱りを受けたところは未だ無い。それに胡座をかいている訳ではないが、近年の人名や車のナンバー等プライバシーの保護には注力し迷惑にならないような掲載を心掛けている。
然し乍ら、掲載を固辞したい神社関係者様がいらっしゃればFBやこちらにコメント下されば対処致します。

今回地元ではないが「ブログ記事にしたい」と申し出た2番目の寺院であり、快諾いただいたので早速公開したいと思う。
圓満寺様に感謝申し上げます。
これまでも幾つかの寺院を巡り撮影・調査はしているが、再度伺って許可が取れた寺院から順に記事にしていきたいと思っている。

今回、医王山圓満寺を記事にさせてもらったが、「医王山」すらもネット検索では出て来ず古書から引いてきた。
このように淡路の寺院でも情報が殆ど公開(ネット)されていない所も多いため、尚更このようなブログでも情報の集積は大切だと感じた。


引用・参照:「津名町史」「兵庫県文化財調査報告 第467冊 淡路市 横入遺跡 (二)志筑川床上浸水対策特別緊急事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」「ニッポンの霊場 淡路八十八ヶ所霊場」(リンク有り)など

筆者が加筆修正した部分が含まれます。

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