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生穂今昔雑記⑥

生穂の祭の特徴

生穂の檀尻祭の特徴・他には見られないことを記していく

台指し

「台指し」とは、棒ではなく台(棒より下部分)を担ぐ手法を云う。播州では「台場指し」とも云われる。
岸和田に代表される地車(曳き檀尻)型ではこの部分は「泥台」と呼ばれるが、布団檀尻やヤッサ・神輿においては地面に下ろすことは担ぎ手の恥とされる。”泥を塗る”等の諺もあるように縁起も悪いので、「泥台」とは呼ばない。
さて、この「台指し」が、かつて生穂・佐野各組で行われていた。
古老数人の証言によれば昔は8人だったと云うが、確たる証拠として確認できるところでは12人で行われていた。

台指し

図のように角に2人ずつ、間に1人ずつ入って計12人である。仮に8人で行っていたとすれば角に2人ずつということになる。

生穂の檀尻をよくよく観察すると、台の柱と柱の間(上図の青字のところ)が刳られていたり、板木が当てられていたりするのが分かるだろう。これは「台指し」時に肩(高さ)を合わすために加工された跡である。
※台直しをした檀尻は跡も無くなっている。

いつ頃から「台指し」が行われたのかは現在のところ不明である。
昭和33年の中田多聞寺「廻り辯財」のために「台指しの練習をしていた(中組古老)」と聞くので、この頃には生穂各組で行われていたと思われる。
生穂で最後まで「台指し」をしていたのは𡈽器屋であり、昭和35または42年の佐野八浄寺「廻り辯財」が最後だったという。理由は泥濘んだ地面で態勢を崩し失敗、1人が脚を骨折したためだと聞いている。

その他の話(𡈽器屋)としては、「台指しを見せて欲しい」との依頼を受けて伊弉諾神宮に奉納したことがある。その際の巡行では、伊弉諾神宮まで担いで行ったという話がある。当時の巡行路を鑑みれば距離9.3km・徒歩で1時間58分の道程である。途中で休憩を挟むとしても現在では不可能だと思う。但し、昔は賀茂神社春祭り(下り)でも、賀茂神社から佐野八幡神社まで担いで行って、小屋に引き返して納庫していた というのは何人もが証言するところで、距離3.4km・徒歩で42分の道程と、その途中で生穂橋で練り込みも行っていたことから鑑みると強ち大言壮語とも思えないのである。

太平楽

「太平楽」とは雅楽の曲目である。即位の大礼の後などに演奏される。令和御大典が放映・配信されたが、その際に目にした方もいるだろう。
意味としては、勝手なことを言って呑気にしている・勝手気儘に振る舞うこと・また、そのさま。イメージとしては「無礼講」が解りやすいと思う。

生穂には「太平楽」と書かれた幟があり、この幟が揚がらないと(檀尻は)宮入りしてはならないという決まり事がある。
いつ頃から始まった決まりなのかは判らないが、明治20年(22年)の「砂持加持」絵馬には描写されていない。
絵馬は祭が再開された様子であり、それ以降檀尻祭が続く過程で生穂と佐野がよく喧嘩していたために作られた可能性と、明治20年以前から在った可能性がある。現在のところどちらなのか判断できる確証がない。

幟は濵組が所有しており、かつては産道に即席の鳥居を作り掲げられていたが、石鳥居が出来てからはそこに掲げられる。

数年前、朝から雨天のため檀尻巡行が中止されたが、昼頃に雨が上がったことがある。濵組小団を含め若中では巡行中止と決まっていたが、上記の決まりを知らない宮司等の判断で中組に檀尻奉納を要請、中組1台だけが宮入するという事態が起こった。中止が決まっていた濵組は当然「太平楽」を掲げていなかった。この事は重大な問題となり、宮司・宮惣代の組織運営にまで影響した。
今後このような事がないように、組織体制や引き継ぎを徹底してもらいたい。また、1人1人が伝統である決まり事を理解し、遵守するように認識を改めなければならない出来事であった。

鉢巻(水引・胴締め)

生穂では鉢巻と呼ぶことが多い。それは綱を後手に結ぶからである。
淡路島内でも殆どが前で結ばれており、後手に結ぶのは生穂の特徴と言える。
理由は定かではないが「前で結ぶのはヤの付く商売(今で言う暴力団)の結び方であるため生穂は後ろで結ぶのだ」と聞いたことがあるが、それならば他所でも後ろで結ぶのではなかろうか。
しかし、他にこれという理由は聞いたことがないし、思い当たらないのである。
現在、生穂でも前で結んでいる所がある。これはだんじり屋の影響である可能性が高い。というのも、𡈽器屋でも檀尻を修繕した際に、だんじり屋から「前で結ぶ」と言われ、そのように飾り付けたことがあるそうだ。
その際は年寄連中から「誰が言うたんや、昔から結びは後ろに決まっとる」と怒られたため、結び直し事なきを得た という。
昔というのはいつなのか定かではないが、少なくとも92年前の昭和3年(1928)には現在、前で結んでいる組も後手に結んでいたのである。
当時の鉢巻(金綱)は、現在のように太い綱ではなく、直径3~6cm程の綱であった。

他所の組の事をとやかく言うのは気が引けるが、苦言として記しておく。
時代に合わせ新しい事も取り入れて行かなければならないのは理解している。しかし独自の伝統・文化は変えずに守っていかなければ、それは伝統でも文化でも無くなってしまう。
生穂以外が前結びだからと前結びに合わせる必要はなく、それならば生穂内の他組に合わせて欲しいものである。


⑦に続く

注)昔は「太鼓」「檀尻」と呼ばれていたことが判明したため、これまでの「ダンジリ」表記を以後「檀尻」表記に変更します。

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