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生穂今昔雑記⑤

現在のような布団ダンジリは、いつ頃から作られ始めたのか

淡路島でも、どのダンジリが一番古いかは明らかでない。年代が判明する文章等の証拠が既に無いことや、製作年代が伝わっていない等で調査できないのが実情である。
『津名町史(昭和63年1988)』でも町内会に質問状を出し、その回答を掲載しているが、応答したのは少数である。
当時津名町内には約50台あったと思われるが、その内の17台のみであった。
この中で、江戸末期の3台が古いものとなる。淡路島内で見ても江戸末期が最古級である。
ちなみに平成25年発行の『淡路島の民俗と芸能』にも島内の質問・回答記録があり回答率も高いのだが、津名町について言えば製作年代には間違いが多く、信憑性は低いと言わざるを得ない。
各組でも代替わりの度にそのような情報が伝わらず埋もれてしまうところが多い。斯く云う自身の組でも「新調したのはいつか」「改修したのはいつか」という事柄も含め口伝によるところが多く、次世代に伝わっていないことは多いように思う。小生がこのようなブログを書き始めた契機でもある。
組・地元の者がダンジリの事を知らず・価値も分からず、島外(播州・岸和田)から見物に来たダンジリ好きに教えてもらう・研究者の本で知る等は恥ずかしいことだと思う。小生もまだまだ調査中の身ではあるが、今更でも研修会や講演会などを行い、組・親が知ることで次世代に伝えていく努力をするべきだと考えている。

話は逸れたが、小生の最近の調査では、江戸中期の明和七年(1770)に製作されたと推定されるダンジリがあるのが明らかになった。一部の製作は大阪の人である。これは「生穂今昔雑記①」のヘッダー画像にしている「摂津名所図会(寛政10年1798)」が描かれた時よりも古いものである。
現在のところ、これが小生が確認している淡路最古の布団ダンジリである。


次に詳細が分かるのは随分と時が過ぎ、賀茂神社『本社砂持実況』絵馬が描かれた明治20年頃になる。島内各地の布団ダンジリの情報があり、またこの頃の明治20~30年に新調されたものが多い。布団は3段から(4段は志筑八幡神社の絵馬のみで確認される。4は縁起が悪いからだろうか)、5段へと変化していった。
一部の記録(未確認)では、明治22年に中組は布団を3段から5段に替えたとある。中組が何時3段の布団ダンジリになったのかは現在のところ不明である。
(21.5/11追記:明治22年に新調された。生穂では明治13年には布団ダンジリが在ったことが判った。)

因みに、『本社砂持実況』絵馬には「奉納 明治20年10月」とあるが、これは間違いであると指摘しておく。描き始めたのが明治20年であり、奉納は本社が完成した明治22年であると小生は断言する。

さて、布団ダンジリはいつ頃作られ始めたのか だが、正確な年代は現在の調査では判らないというのが結論になる。
淡路では江戸中期から作られ始め、生穂では明治初期頃(20年以前)から作られ始めた。と曖昧な年代までしか特定に至っていない。

淡路島のダンジリ祭の最盛期

淡路のダンジリ祭の最盛期は、昭和30~40年代までだったと推察している。人によれば「国生みの祭典」があった昭和60年だとする人もいるだろう。
確かに「国生みの祭典」に津名町中のダンジリが一堂に会した際は、祭・ダンジリ好きには将に天国と言える光景だったことだろう。
然し乍ら、それよりも前にダンジリを売却していた組も多く存在する。

なぜダンジリが売却されたのか

特に上郡(旧津名郡)全域だと思われるが、ダンジリ運行の道路使用許可が降りなかった期間がある。小生が父から聞いた話から、それは昭和40年頃から約10年間と推察している。
10年という月日は長く、この間も土用干しなどを行わなければならない。また、組によっては小屋の賃料を払っているところもある。
町内会から土用干し費用が出るところもあれば、祭の寄附にも廻れないため自腹で賄った組もあることだろう。
管理している側からすれば「祭にも出せらんのに費用だけかかって、ほんなら売ってまわんか」となるところがあっても仕方のないことである。

売却することで他所の所有になってしまうが、小屋に仕舞ったままで埃を被るより祭に出せるほうがダンジリにとって幸せな事だ という考え方もあるが、自分が生まれるより遥か前からある村の宝を売却まで追い込んでしまう地元行政(警察署)の理解の無さに憤りを感じる話でもある。

現在においても、若衆・担ぎ手不足を理由に売却されていくダンジリもある。「村の宝なのだから」と、それでも遺していく組もある。

どちらが正しい選択なのかは判らない。が、一度止めてしまった文化を再び一から興すのは継続よりも難しいことである。
これは地元を調査していても続々窺い知る。既に廃れた神事・踊り・声器楽はどうやったって知りようが無いのである。

例えば、嘗て大谷南には他と同じようなダンジリが在ったが、小屋が潰れた為に手放してしまった(行方は現在調査中)。月日が経ち、大谷南が発展し子供も増えたので子供ダンジリを新調することにした。と、ここまでは良かったのだが、ある問題が発生した。
生穂では各組順に境内でダンジリを練る。その練り込みに合わせ「祇園囃子」が歌われるのだが、各組其々のアレンジがある(あった)。
大谷南は古いダンジリと共に「祇園囃子」も途絶えてしまっていたのだ。
奉納は練りであり、練り込むなら「祇園囃子」を歌わなければサマにならない。困った責任者は地元の古老に聞いて回ったが既に知る者は無し。そこで𡈽器屋組の「祇園囃子」をベースに新たに作ることになったのである。勿論歌詞を熟考し、練習を重ねて作られた「祇園囃子」であるのだが、代々伝わる大谷南の「祇園囃子」は二度と聞くことは出来ない。

このようなことからも小生としては、地元で作った村の宝を出来るだけ地元に遺しておいて欲しいという想いである。

上記の道路使用許可が出なかったこの10年間に売却されたダンジリが多く存在するため、それ以前の昭和30~40年が最盛期であったと小生は考えている。
この10年間、管理し続け、諦めず毎年道路使用許可を出し続けた先達と、新しく警察署長に赴任してきて「要件を満たしているのに不許可にするのはおかしい。どんな祭か見定めよう」と許可と出してくれた当時の警察署長様に敬意を払いたい。

⑥に続く

ヘッダー画像:『賀茂神社春祭り 𡈽器屋 昭和60年頃』

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