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淡路島の社を巡りて~第陸社目 洲本八幡神社(上八幡・八王子神社)

※第肆~伍社目が飛んでますが、別ブログから修正加筆して後日アップします。

【由緒略記】

創祀年不詳。淳仁天皇(733~765)の御創祀とも伝わる。
縁記書には永祚二年(990)国司代の藤原成家が奉仕の四ヶ寺と共に創建したと書かれている。
藤原氏が赴任の際に、嵐に見舞われたので祈ったところ、嵐が過ぎて難を逃れたことから開運導き・災除の神として信仰を集める。
室町末期に安宅氏が三熊山に洲本城築城の際、参籠したことで代々の城主に崇敬された。
江戸時代には洲本八幡神社の前に洲本城があり、蜂須賀・稲田両氏の祈願所として洲本城鎮守の神とされた。

平成2年(1990)本殿宝物庫から「縁記巻物」が発見され、創祀か創立かは定かでないが、承保元年(1074)ということが判明した。

明治31年(1898)本殿幣殿外改修
昭和50年代末から幣殿・社務所・金天閣の改修補強、本殿屋根葺き替え


【意匠・彫刻】

大きくはないが趣のある古い楼門。

楼門までは大きな駐車場に使用されている。境内も広く、境内社も大きな社である。玉垣内は木に覆われ本殿はあまり見えない。

幼稚園の近くにあり、七夕などには園児が絵付けした提灯が連なって掲げられる。一種のライトアップで、夜に通るのも風流で良い。

拝殿狛犬の台座には「文化六巳年五月吉日」(1809)の文字が見える。

境内社に柴右衛門大明神、県指定文化財の金天閣がある。
柴右衛門は日本三大狸に数えられ、芝居好きの狸として有名である。
平成11年(1999)に大阪中座の閉館に伴い、守り神として祀られていた柴右衛門大明神を(翌年)遷座した。
因みに淡路市佐野にも柴右衛門が祀られている。

金天閣は寛永18年(1641)に当時藩主蜂須賀忠英が洲本城内に建てた御殿の一部で、明治維新後に取り壊されたが玄関と書院だけ大正14年(1925)に移築され、残されたもの。
稲田騒動で建物の多くは焼失したが、江戸時代初期の「書院造」が現存する唯一の建物である。

楼門を抜けると直ぐに御神木の大楠がある。県第4位の巨木で樹齢千年以上とされるため「千歳楠」と呼ばれ、健康長寿として信仰されている。

多く見受けられる「丸に卍」紋は蜂須賀家の家紋である。

近く(同じ敷地内)に白髭神社と國瑞彦靖国神社がある。

洲本八幡神社から三熊山の洲本城西の丸の方へ登ると、洲本上八幡神社がある。名前からすればこちらが本宮に思われるが、社殿からは別当だろうか。
小さい社だがしっかりとお祀りされていた。


さらに洲本城本丸に向かって山を登ると、山頂付近に洲本八王子神社がある(車で公園まで行き、そこからのほうが近い)。

鳥居には「明和二年五月吉日」(1765)

近くに柴右衛門の祀所らしきところもある。

柴右衛門は芸事の神とされるので、そこから洲本城跡まで稲荷社が立ち並び、鈴緒の六角箱には奉納者であろう「藤山寛美」の名がある。


【祭礼・檀尻】

1月1日 元旦祭、3日 元始祭、2月3日 節分祭(歳越祭)、4月29日 だんじり祭(武家郷祭)、7月31日 大祓、9月15日 例祭、11月1日 柴右衛門祭、11月23日 新嘗祭、12月31日 大祓除夜祭、毎月25日 月次祭

春祭りには檀尻6台が宮入する。

檀尻について少しだけ触れておく。
それは、淡路国で初めて檀尻が出されたのはこの洲本八幡神社とされているからである。
淡路島の古文書「味地草(括弧内は堅磐草)」(筆者現代語訳)には、

洲本の船頭で庄次郎または興次郎(与次郎)が、元禄三年(1690)秋頃に交易のために九州日向国(大隅国)に赴き、古い野臺(ダンヂリ)を買い求め洲府に帰り、同年八月から洲府八幡明神の祭礼に挙げた。その後は春秋祭礼に欠かさずに出した。

そして、洲本内に数が増え彫刻等を施して豪華になっていった。
船頭の庄次郎が、1690年の秋に九州日向から野台を買い帰り、八幡神社の祭礼に出したのが分かる。この記述が淡路島で最も古い記録となっている。

『堅磐草』(筆者現代語訳抜粋)

須本八幡宮祭礼には大小の野台が出て(大小は大きさではなく芸者の長幼を言う)大車楽は舟長・中間、小車楽は本町(中略)に11車あり。
祭の20日前から練習をする。街々を曳き廻らせ観客を魅了する。(中略)
梁上ノ彫刻ハ飛騨ヲ欺テ妙工ヲ尽くして壮観である。(中略)漁師町、上・下物部各村に舁野台あり。これは神輿に随伴する。(中略)舞車楽は別行で終日芸を尽くす。芸を止めて野台を曳き帰るのを宮入と言う。少年たちは揃いの提灯を提げてこれを迎え「栄西哉長者坐哉(エウサヤチョウサヤ)」と共に賑やかし、芸ニ預ル戸々ニ入テ(祭日前から軒端に幟を立て並べ恰も浪花劇場の街側を見るようだ)、祝詞・拍手し、練り歩き夜になる。

野台(ダンヂリ)には大小(大きさでなく長幼)があり、種類も「曳きだんじり」「舁きだんじり」「神輿」「舞台だんじり」があったのが判る。
また舞車楽では芸が行われ、掛け声も在ったことが判る。

また(『味地草』)

第一街と下水樋街は宝暦四年(1755)正月始めに二重棟権輿にした。
昔の小壇地車は今の大壇地車のように、茜巻きの柱で一重棟で雑劇床は厚板を徽索にして、襖四枚を入れて葦簾に粉錠子を菊・桔梗牡丹に唐獅子等を描き、縁は茜布を使った。芸は軽く二場をして(中略)明和(1764~1771)中期から必ず一場は行うと替え、芸を省いた。

全体像はイメージしにくいが、1755年に現在の岸和田地車のような二重棟になったことが書かれている。
文化初年(1804)頃までは、美少年に芸を稽古させたり、摂坂(大阪)から芸者に来てもらい翌朝船で送ったりもあったようである。


近年では、沼島の中央公会堂地下から「箱だんじり」と思われるものが発見されている。地元では「江戸時代の箱だんじり」と言われている。

岸和田だんじり祭の起源は江戸時代1703年とされ、当初は長持に車輪を付けた簡素なもので、その後、装飾され巨大化していったと言われている。
この「箱だんじり」が300年前の現物ならば岸和田にも残っていない歴史的に貴重な原始のだんじりとなる。

この沼島の「箱だんじり」は昭和50年代に新聞記事で紹介され、長さ1.5m、幅約70cmで車輪を付けたような跡も確認でき、古文書の記載と一致するが、学術的な証明は行われておらず確かな物かは分からない。
しかし、かつて淡路島には海人族・水軍があり、沼島も古くから海人族として漁を行っており、現在でも泉州との関係が深いことを考えると可能性は高い。

淡路島と岸和田どちらが先かと決断する気はない。
だんじりの伝播については諸説あり、古文書を当たっても正確に判断できない。
日本の海路は現在考えられているよりも古くから発達しており、縄文時代には小笠原諸島に到達していたとも言われているので、様々なルートから伝播していったのであろう。起源は最早分からないのかも知れない。

淡路島「だんじり」の詳細については時を見て記事にしたい。

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