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淡路国小社十一座を訪ねる(津名郡篇)⑥ 志筑神社(手間天神)

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※2020/01/04加筆・修正

【由緒略記】

延喜式神名帳にある淡路国小社十一座のひとつとされる。
往古より手間天神申の宮・田井の天神と呼ばれ、志筑七社の首座であった。 
延喜式は複数あり、中には「志築(シチクノ)神社」と表記されたものや、「志筑」だがフリガナで「シチクノ」となっているものもある。
地名については、別途マガジンを作って報告しようと考えている。

産経新聞によると、

境内にある楠の樹齢が約800年ということが専門家の調査で判明した。
天神地区は源義経の愛妾「静御前」の終焉伝承地の一つとされ、同神社は1本を静御前にちなんで「志筑天神 静之大楠(おおくす)」と命名した。
年輪などを手がかりに測定したデータでは600~900年で、平均すると800年とした。

折角なので、ここで静御前について触れたい。
静御前の舞楽の友人に一条中納言能保の妻(源頼朝の妹)がいた。
志筑荘は一条家の荘園である。
静御前の母磯の禅師は、娘である静の遺骨を故郷に持ち帰り弔ったのだという説がある。
室町時代の製作である宝篋印塔2基が志筑田井にある。淡路の中でも古いこの石塔が静御前の墓とも言われている。磯の禅師は王子の出身だった説があるが、ではなぜ石塔が田井にあるのか分からなくなる。

志筑神社という名称から、小生も当然に淡路国小社十一座のひとつだと思っていた。しかし、資料等から考えると小社だったのは熊野若一王子神社ではなかろうかとも推察している。
『堅磐草』でも小生と同じ説が唱えられ、『味地草』では「天神社」であるとされたそうだ。この二草の比較は後に調査して加筆したいと思う。

ここでは小生の推察を記したい。
王子は現在、中田区分になっているが、かつては志筑区分であった(淡路市環境基本計画 市指定文化財にも「淡路国上郡志筑庄王子村御検地帳※位置図未記載」などがある。残念ながら内容を確認することはできない)。

また王子神社からも判るように、社号が地名となる例は多く、現志筑神社のある地名は天神である。拝殿正面には「天神宮」の社号額もある。

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ただ、境内社の北野神社(菅原道真公)が勧進されたのは古くはないらしいのだが、手間天神が先んじて祀られていたのだろうか。
ちなみに「天神」というのは菅公のみを指すのではないと閲読した記憶がある。鮎原の河上天満宮には菅公が立ち寄ったという伝記があるが、仮にこれが本当だとしたら、西浦からわざわざ東浦まで来た可能性は低いようにも思われるが…。

志筑神社と熊野王子若一神社の現神主さんに話を聞いたところ、
一遍上人が亡くなる1ヶ月前(正應2年(1289))に天神宮に参拝なされた様子が「一遍上人聖絵伝 第十一詞書」にあるという。
国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、絵図には慥かに「天神宮」とある。文章の方は草書で書かれており、『京北野天神勧進し』『菅原道真様乃』『門を出て』など私には断片的にしか読み解くことができないので、絵図から立地を推測することしかできないが、境内に巨木が描かれている。
一見して松のように見えるが、その奥に直ぐい巨木が2本描かれているように見え、巨木の場所は現在とは違っているが、これが(静の)大楠だろうと思われる。年号も合致する。
また「一遍上人聖絵伝」の天神宮には、本殿・舞殿と鳥居しかない。
一方、古絵図の王子社には本殿・拝殿・楼門(境内下に多聞寺・離れたところに鳥居)が描かれている。絵伝にそれが描いてないということは、上人が参拝したのは王子神社では無く、天神社であることが分かる。
付け加えるなら、一遍上人が「天神社」に立ち寄ったのは確かであるが、「一遍上人聖絵伝」の文章に志筑神社の文字は確認できなかった。

『津名町史』の資料編には、明治8年6月2日に戸長から名東県権令に出された『志筑濱村志筑神社取調帳』の内容が記載されている。
ここには、「常盤草に崇神天皇6年也トアリ(抹消されている)。神仏分離の前までは別當天神坊があった。神主は王子村の井内某」であったことが書かれている。
神主が王子村の方だというのは偶々かも知れませんが…。

上記は、志筑荘が新熊野社領だったという記録から『王子神社=志筑小社』と疑問に思ったところから推察し始めたにすぎず、どちらか断定するにはまだまだ調べることが多く、進んでおりません。
現在のところは志筑神社は「淡路国小社十一座を訪ねる」に、熊野若一王子神社は「淡路島の社を巡りて」に分類することとし、筆者の推論を読者に考察して戴きたい。私自身も追って調査したい。

(2020/04/05加筆)
『淡国通記(1697年)』の淡路國十三社では、「志筑ノ神社は王子ノ邑の王子権現あり、これ志筑七社の中にして、熊野より飛び来る神なり、之を略す」とある。


【意匠・彫刻】

静の里公園・津名図書館のある志筑天神の信号から遠田線(至尾崎)を進むと、左手に看板が建っているので右折をする(細くて分かりにくい)と直ぐに石灯籠があり、志筑別神社・天神極楽寺を超えて坂を登った先にある。
境内左手の「静乃大楠」が目印。

拝殿の獅子鼻

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本殿の獅子鼻など

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隅木先にも象鼻を彫っているのを初めて見たのがこちらでした。

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本殿向拝狭間は親子の牡丹獅子。3匹もいるのは珍しいように思う。
また虹梁の松も見事。

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妻桁の上に鷹と龍

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手挟には麒麟

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神社巡りの最初期は、只々参るだけ。その頃はどちらかと言うと神道に関心があった。その後、社殿を写真に収めるようになった。そして歴史由緒や彫刻にも興味を持ち始め、改めて撮影するために訪ねる神社も多い。
志筑神社も大変に興味深い神社であり、これまで何度も訪れている。

最近は機会があれば訪問先で御宝印(御神印や御朱印ともいう)も戴くことがある。御社は御宝印紙が置かれているので、料金を奉納し自分で日付を入れて御宝印帳に貼り付けらるので有難いです。

神社巡りについて前述したのは、彫刻に関しての見識も広がっていること(まだまだですが)を示唆したかったためで、現在ではこれが大村南龍の作であると判断できる。
南龍の作は志筑八幡神社(拝殿狭間)が有名であるが、志筑神社も負けず劣らずの傑作である。

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本殿の石灯籠には年号(嘉永?享保?寛永?のような)が刻まれていたが、摩耗が激しく判断ができなかった。

正確な年号は分からないが、南龍作の彫刻からも現在の社殿の基幹部分は江戸後期~明治初めに建立したものである。尚、阪神淡路大震災で修復工事を行っている。
それよりも前の社殿についての詳細は分からないが、一遍上人が参拝した1289年(729年前)以上の昔から社殿があった。


【例祭】

9月の第4日曜日(2017年は10月1日だった):秋季例大祭

郷社であった志筑神社には、かつては20旙の檀尻が出ていた。

【志筑】北、南、明神、連東、西谷、田井、天神、殿下、連上、中部
(※連上(曳)と殿下は現在子供檀尻に新調し、中部(曳)は売却、石神は佐野(南濱)から購入)
【中田】大円道、南、北、王子、池ノ内
【尾崎】遠田、新村【多賀】竹谷、上河合【大町】畑

神戸新聞によると「2017年10月1日に、18年ぶりに志筑6播の布団檀尻が宮入した」とある。それまでは例年、天神組1基だけだったという。
檀尻の様子は追って記録したい。

※だんじりの正確な助数詞が分からないので、敢えて統一せずに様々な助数詞を使用している。
「だんじり」については「檀尻」とし、古い記録(明治初期以前)のものは淡路古文書である四草で最も使用されている「野台」と表記する。

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