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【短編小説】不可抗力

 引っ越しの準備が終わったので、淳一は母の見舞いに行くために夕方ちかくに家を出た。
 駅に向かう道の途中にある国道の交差点の歩行者用赤信号は長い。車が来ないので渡ろうと、横断歩道の手前に停まっているトラックの前面を通り過ぎた瞬間、トラックの影から現れた車に危うくぶつかりそうになり、その場に立ち尽くした。車も少し脇に逸れたが、スピードを落とすことなく走り続け、みるみる車道の左側に寄って行き、歩道に乗り上げ、一方通行で左折禁止の小道に消えた。その直後、大音量の破壊音が響いた。近くにいる歩行者たちがなんだなんだと現場に向かう。淳一は怖くなり、青に変わっていた横断歩道を足早に渡った。歩きながら、不自然に見えないよう、騒がしくなってきた現場に視線を向け、大概の人間と変わらぬ野次馬根性があることを装うことは忘れなかった。自分の背後に人がいないことも確認した。

 ──トラックには誰も乗っていなかった。横断歩道の前後左右にも誰もいない。大丈夫だ、バレてない。

 いつもより鼓動は速いが、それがどうした。パトカーや救急車のサイレンをBGMにしながら、そのまま駅まで歩き続けた。

 「明日引っ越しでしょう? 忙しいときにわざわざ来てくれなくてもよかったのに」

「俺の方こそごめん、お母さんがこんな時期にそばにいられなくて」

「綾がいるから大丈夫よ」

 綾は2つ下の妹だ。結婚して幼い子どもが2人、この病院の近くに去年建てたマイホームに住む。母は椎間板ヘルニアの手術を3日前に終えたばかりである。

「淳一、来たときから顔色が悪いけど、なにかあったの?」

「えっ……? い、いや、荷物まとめててちょっと疲れただけだよ」

 母に先ほどの出来事を打ち明けてみようかと、ここに到着するまでにずっと迷っていたのだが、言ったらどうなるかという幾通りもの想像が膨らんでいただけで、本当に口に出すつもりは端からなかったのだという気もする。

「でも店長になるんでしょ? 栄転よね。遠くなるからちょっと寂しいけど」

 大学卒業後から勤めているアパレル会社で、ある地方都市への出店が決まり、淳一が中心となって準備していたので、そのまま店を任されることになったのだ。決して栄転ではなく、生活環境を変えたくない妻子持ちの同僚たちから、独り身である淳一に圧力がかかっただけのことである。
 後ろ髪を引かれながら母の病室を出た。病院の近くのカフェで時間を潰し、完全に暗くなってから店を出た。最寄り駅に着き、まずはあの交差点を通らず、遠回りして帰宅した。白と紺のボーダー柄のロングTシャツを脱ぎ、違うものに着替えてから交差点に向かう。現場に近づくにつれ速さを増す鼓動に胸が痛くなる。

 ──今だけだ。今我慢すれば、明日からはこの場所とはおさらばだ。

 国道の歩道をゆっくりと歩きながら、小道に目を向けた。わずかな時間で垣間見た限り、道に入ってすぐの傾いた電柱に支柱が当てがわれており、その周りに立ち入り禁止のテープが貼ってあるだけだ。何かが起こることを予想していた訳ではなかったが、いつもの落ち着きを取り戻していた現場のあっけなさに、良くも悪くも期待を裏切られたような奇妙な気持ちを抱きながらまた家に帰った。
 次の日、無事に引っ越しが終わり、段ボールに囲まれた部屋で、今日移動時に持っていたリュックから、昨日事故があったときに着ていた例のロングTシャツを取り出し、マグカップを包んでいた新聞紙にくるんで、コンビニで買った小さな白いビニール袋に入れた。マンションの1階のゴミ捨て場に行き、普通ゴミの収集日が明後日であることを確認して部屋に戻り、その袋が先ほどと同じ場所にあることを確かめた。

 店をオープンしてから1年半、オープン当初の賑わいが下火になったあと、また徐々に売り上げが回復して軌道に乗ってきたころ、15年以上も前に会社を辞めた1年後輩の岡崎から連絡があり、自身のブランド初出店のオープニングセレモニーに是非とも来てもらいたいとのことだった。会社に馴染めないと悩んでいた岡崎は、入社後2年もしないうちに見切りをつけ、ある有名デザイナーのアシスタントになった。短い間だったが、苦しい時間を共にし、なんとなくウマが合ったので、会社帰りに時々2人で飲みに行ったりしていた。自分のブランドを立ち上げるというでっかい夢があり、端から会社という小さな組織に収まるような人間ではなかったのだ。

 ──結局、独立して行くのはそういうヤツだ。俺のように会社にしがみつく能力に長けているからといって、何の自慢にもならない。

 休みを取ってホテルを予約した。1泊とはいえ、東京に戻るのは1年半前の引っ越し以来だ。実家にも顔を出そう。

 「岡崎、お前すごいな。夢が叶ったじゃん」

「佐伯先輩、マジ嬉しいっす。来てくれてありがとうございます。先輩、ちょっと痩せましたね」

「太るよりいいだろ」

 若いときと変わらない夢見がちな目──しかしその中に、経営者としての確たる自信がキラリと光る。岡崎のブランドは業界でも結構注目されていて、取材陣もちらほら見える。

「先輩はLでいいっすか?」

 セレモニー終了後、参加者へのお土産に、岡崎が出口に立ち、ひとりひとりに自身のブランドの服が入った紙袋を手渡しで配った。店を出てひとりで近くのイタリアンレストランに入り、注文を終えてから袋を開けた。

「ひっ!」

 淳一の口から出た叫び声に、周りのテーブルの客たちの視線が集まった。紙袋の中の服のひとつが、白と紺のボーダー柄だったのだ。すぐに袋を閉じた。脈拍が乱れた。汗が吹き出した。息が荒く、おそらく顔面蒼白だろう。料理が到着し、食べても味がしなかった。半分ほど残して、目を伏せながら店を出た。
 レストランの最寄りの駅は、前に住んでいた家の最寄り駅と同じ路線だった。予約したホテルのある駅とは逆方向だが、あの現場に行って確認しなければいけないことがある。電車の中に紙袋をわざと忘れようかとも考えたが、実行する勇気はなかった。
 駅に着き、現場を目指し歩き始めた。引っ越し前夜と同じような暗さだ。お決まりのように速まる鼓動。青信号になるまで待ってから横断歩道を横切る。そして、あの車が入り込んでしまった小道を曲がる。どこにでもある閑静な住宅街である。事故のあった日に国道からチラと見ただけで、以前近くに住んでいたときには一度も入ったことのない道だ。例の電柱に目当ての物があった。1年半前に起きた事故の目撃者を請う看板である。

 ──「運転手が死亡した事故」……!? ヤツは死んだのだ……。

 これぞ自分の求めていた情報だった。なのになぜだ、このどんよりとした胸の内は……。自分を目撃したであろう唯一の人間はもうこの世にいないのだから、探し出されて暴かれる恐れはない。この1年半、常に追われていたような緊張感から解放されるのだから、もっと喜んでもいいはずだろう? 
 駅へ向かうため交差点に戻り、信号が変わるのを待つ。と、止めていた足が動き出した。自分の意思とは無関係に車道に出る。あっと思ったら、右から猛スピードでやってきた車のヘッドライトの光に目が眩み、紙袋が宙を舞った。

(了)


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