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お笑い芸人のオタクしてたら劣等生だった私が社会起業家になって有名私立大学に入ってしまった話〜NON STYLE石田明という人<後編>〜

石田 明(いしだ あきら、1980年2月20日 - )は、日本のお笑い芸人、俳優、演出家、脚本家である。大阪府大阪市出身。吉本興業所属。NON STYLEでは主にボケとネタ作りを担当しているが、まれにツッコミを担当する。基本白い服を着ている。相方は、井上裕介。立ち位置は左。(_wikipediaより)

これから始まるテキストは前回同様、いかに石田さんのお人柄が素晴らしいかのお話です。私の石田さんとの思い出話。ファンでいてよかった話。よければお付き合いください。後編!!石田さん側からNGがあれば即削除致しますのでご連絡くださいね笑。

石田さん40歳のお誕生日おめでとうございます!!石田さん読んでますか?かにみそです。最近会いに行けず寂しい思いをしています。今私は岩手県に長期インターンで帰ってきています。ファン仲間の子から石田さんの舞台の感想は聞いています。NON STYLE結成20周年。素敵な1年になるようにオタクとして頑張ります。

昨日の続き

グレた私がという表現はやめました(笑)。全くグレてはいなかった。髪も染めてなかったし、ピアスもしてなかったし、タバコも吸っていなかった。部活に行かず、友達と遅くまで遊んで宿題はせず他中の子とタイマンをはって相談室に通ったり、、劣等生ではあったと思います。でもそんなだった私がNON STYLEのおかげで慶應義塾大学に入った話です。

中学2年の冬。進路を考え始めていた頃、近所のおばちゃんが1枚の新聞を持ってきてくれました。

これです。この新聞が私の運命を変えました。とにかくお笑いが好きで、私みたいにつらい想いをしている人の手助けができればと、中卒で吉本興業に就職することを決めました。その年の3月。6人の中卒の人たちが採用され当時社長だった大崎洋さんの隣で新入社員代表挨拶を読んでいる女の人がめちゃくちゃ羨ましくて、私も絶対大崎さんの隣で挨拶するんだ。と誓いました。先生たちからは猛反対を受けたけれど、最終的にはみんな応援してくれてハローワークに通ったり履歴書書いたりしました。大崎さんの本をめちゃくちゃ読んでいました。面接会場はお笑いファンなら憧れる東京本社で行われました。あの!大晦日のガキ使に毎回出てくるような有名な社員さん、昨年記者会見で世間を騒がせた社長さんに面接していただき、吉本の社訓を暗記して言えるほど吉本マニアの私にはたまらない空間でした。

今大学生ということで結果はお分かりだと思いますが、”不合格”。人生で初めてお祈りメールをいただきました。とにかく悔しくて1日中泣いていました。思い描いていた大崎さんの隣で挨拶をして、NON STYLEのマネージャーになるという夢は打ち砕かれてしまいました。でももう一回受けてやるという野心はありました。絶対NON STYLEの2人とお仕事しようと誓った瞬間です笑。

希望の進路にはいけず、地元の高校に入りそれなりの生活を送っていたお笑いオタクの私は、遠征を覚えて毎月夜行バスで東京に行き劇場に通う日々を送っていました。

ある時、友達に誘われて行った高校生が集まるイベントで地域貢献について考える機会がありました。私はNON STYLEのお二人に救われたので、自分も誰かを笑顔にできる人になりたいと強く思いました。自分の地元の課題を考えた時に、当時私も住んでいた仮設住宅を家(いえ)だと呼べていないことが課題だと考えたのです。仮設住宅に住み始めて4年が経過していたのにもかかわらず、誰も家と呼んでいなかった。友達と話してても「仮設に遊びに行くね」と無機質な呼び方に違和感を覚えていました。ある時同じく仮設住宅に住む友達になんで家と呼ばないのか尋ねました。友達は「震災前に住んでいた家が私にとって家であって、仮設住宅は仮設でしかない」と話してくれました。確かにその通りです。私も他のみんなも心の何処かにそう思っていました。震災前の家にあって今の仮設住宅にないもの。それは「愛着」と「思い出」だと考えました。私は美術の授業で何時間もかけて描いた絵や作った作品に愛着が湧きます。その愛着を仮設住宅に持ってくればみんな愛着が湧いて仮設住宅を「家」だと呼ぶことができるかもしれない。そう考えました。仮設住宅の壁面が鉄板でできていたことから、マグネットアートしようと考えました。私が発起人となり地元の一般社団法人の方などと「釜石マグネットぬりえプロジェクト」を立ち上げました。が!思い通りに活動が進まず悩んでいた時、友達が私のことを記事にしてくれました。http://www.rise-tohoku.jp/?p=10240 <是非呼んでみてください!>石田さんのツイッターに何気なくURLを送ると、ファンに返事しない石田さんからお返事が!

モチベーションになりました。絶対やりきってやる!!と誓いました。

それから一年。東京藝術大学の学部長の日比野克彦さんにお手伝いどころではないくらいお手伝いしていただき、住民の方々と一緒にマグネットで彩った「家」を作り上げました。

<当時私が住んでいた仮設住宅>

<住民の皆さんと彩った家>

<マグネットとは10センチ角のものでそこにハートが入ったカッティングシートを思い思いに貼ってもらいます。>

自分も誰かを笑顔にできるんだと強く思った時でした。

その翌年、まちを彩るマグネットアートとして釜石市民ホール建設用の目隠し用の鉄板を市民の皆さんと彩りました。

その時のイベントで私にサプライズで手渡されたもの。

それはNON STYLEのお二人が作ってくださったマグネットでした。お二人からビデオメッセージまで頂いて感無量でした。何より私が社会貢献を始めようと思ったきっかけもNON STYLEのお二人に救われたのがきっかけだったし、そんな師匠みたいな人生の目標としている人に自分のコツコツやっていた活動を認められたこと、そして賛同してくれたことが嬉しかったです。

こうしてマグネットアートからまちづくりに参画していきました。どんな時でも「好きなことで」地域貢献していこうと誓い、高校3年の進路選択の時にイノベーションの最先端である、慶應義塾大学 総合政策学部を第一志望にして受験頑張りました。。。毎日志望理由を学校終わってから22時まで添削してもらい、土日はマグネットの活動をし…。部活もしてなかったのにハードモードな学生生活でした笑。ちなみに AO入試です(このこともまた詳しく書きます)

受験で上京した次の日池袋サンシャインシティであった東京グランド花月にチケットを譲ってもらって行った時、うろうろしてたら遠くの方から見たことある歩き方の人!!と思ったら石田さんでした。初遭遇!マグネットの写真を見せると覚えてる!と言ってくださりここでまた感謝を伝えることができました。

その後無事合格し、卒業と同時に復興庁主催の「新しい東北 復興創生顕彰」を個人部門でいただきました!


その後のお話。。。原宿であったイベントで僭越ながら出待ちさせてもらっていた時のこと…。石田さんとお話してたら、お前かにみそ(私のツイッターの名前)ちゃうん?!と声をかけてくれて、なんだか石田さんの中で私に関わってもらった人生が繋がってくれたのかと思って泣きました。


MY  LIFE  WITH NON STYLE____私の人生はNON STYLEとともにある。かっこよくいうとそんな感じでしょうか。こんな人生を送れたのもNON STYLEのお二人のおかげです。本当にありがとうございます。命の恩人であり、人生の目標です。ないと思いますが、何かあってご飯が食べられなくなった時お二人に、特大の仕事をふれるような会社に就職します笑。大好きです。〈↓石田さんと香川県であったイベントで撮った写真〉

この一連の流れを講演会で話すと「震災があってよかったってことですか?」と無慈悲に聞いてくる人もいますが、そんなこと絶対にないです。辛いことの方が圧倒的に多かった。でもそれをバネに頑張れた人の話です。震災からあと1ヶ月で9年。3月11日になったらあんな変なNON STYLEオタクもいたなと思い出してください。そういえば被災してるんだったな。今東北はどうなっているんだろう。そこまで考えてくれたらきっと震災は風化されないでしょう。

次回は、石田さんのファンサだけの記事も書こうかなと思います。ここまでおつきあいいただきありがとうございました!

前編 https://note.com/terayuki0217non/n/n5a18d162da7d

<てらさきゆき> 

岩手県釜石市生まれ 慶應義塾大学在学中お笑いとお酒と釜石を愛してやまない女子大生の備忘録。将来の夢は地元で働きながら片手間にスナックをすること。                                

【お問い合わせはこちら terayuki0217non@gmail.com】  






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