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列車にて


 木曜の午後、私は四両列車に揺られていた。目の前の優先席に腰掛ける老人が、私に声を掛けた。老人はおおよそ仙人か手練の忍である。

「ちょいとすみませんが…この電車はどこへ向かうのですか」

 私は少々考えてから、老人から目を逸らして、老人のすぐ後ろで高速に過ぎ行く電柱やビルや空や生き物が映る車窓を見た。
 折り鶴の群れが遠くに見え、スクールゾーンの交差点では般若面を被った猫背のサラリーマンが部下の OLと手を繋いでいた。大通りの商店街では巨大な絡繰人形から人工の花吹雪を巻き上げ、大バーゲンと題された衣服達が主婦の手に鷲掴みにされている。

 釣り革に掴まった脇差を構えた二人の女子高生が、老人を嗤う。私はそんな光景に切なさを覚え狸寝入りを始め、もう老人を見るのを止めた。
 それから何度か老人が、「あの~」とか「もしもし」とか呟いていたが、小さな溜息を最後にその声も止んでしまった。私はまぶたの裏側で多少の罪悪感に駆られてしまったが、厄介に巻き込まれなかっただけ良かったのだと決めた。

「間もなく無限橋前、無限橋前、お出口は右側です。――お客様にお願い致します。優先席付近では、携帯電話の電源を御切り下さい。それ以外の場所では、マナーモードに設定の上、通話はお控え下さい。――無限橋前の次は卍坂に停まります」

 スマホの画面を見る死んだ魚の目をした乗客達は、屍のように電車に揺られてカラカラと首を鳴らす以外はピクリとも動かない。私は虚空を見つめたまま、乗る列車を間違えたのだと気がついた。それでも列車は止まることなく終着駅までその足を止めてはくれない。

 この電車はどこへ向かうのだろう。私は少しだけ薄目で老人を見た。しかし老人もまた目を瞑り狸寝入りを極めている。そんな光景になぜだか私自身の極りが悪くなり、つい完全に眼を開いてしまった。この老人はこれからどうするつもりなのだろうか。行き先も知れない列車に揺られ、行き先の違う者たちの声に駆られ、何も知らない場所へと連れて行かれる。それなのに老人はのうのうと居眠りなどして…。

 私の背中がほのかに熱い。背後の車窓から西日が注がれ、老人へと細い影が伸びる。女子高生は、先程から脇差の鞘から刀剣をチラつかせ、出しては納め、出しては納め「カチン、カチン」と癖のように鳴らして私の苛立ちを掻き立てる。前の車窓には読経と共に幾体もの苔むした地蔵が流れて行った。私は溜息を吐いた後に、携帯を見た。妻には少し遅れるとだけメールした。今日は会社の書類を持ち帰ってきている。家に帰ってからもまだ少し仕事が残っている。

 とにかく、私は次の駅で降りよう。無限橋前で降りて、それから我が帰路へと続く列車を待つのだ。

「あんさん、あんさん、今日の帰り、うどん屋へ寄って行かないかい?」
 女子高生の会話がする。
「あたし、部活でお腹が空いて死んでしまいそう」
「でも、今ダイエットの真っ最中やし、間食は控えてんのよねぇ」
「そんな水臭いこと言わないでおくれよ、食べないなら頼まなくて良いし。なんなら、あたしのをあんさんに、ちょいと分けてあげるよ」
「ホンマに~?」
「ほんまよ、ほんま。せやからあんさん、一緒にうどん屋付き合っておくれよ」

 眉の無い二人の女子高生は、懐から扇子を取り出し口元を隠して「おほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほはほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ」と笑った。列車は気づくと、速度を落とし駅のホームに停まろうとしていた。ホームにはスーツを着た足軽や、肌を随分と露出させた湯女達が、列車が停車するのを待っていた。私はそそくさと書類の入った鞄を抱き上げ、出口までゆっくりと歩み寄った。携帯を見る。時刻は5時半を過ぎようとしていた。妻からの返信が着ている。

「コンヤ ハ、ウドン ヨ」

 私は、出口付近で西日に照らされている老人を少しだけ見た。老人はまだ目を瞑っている。どうやら本当に眠ってしまった様だ。あのままで良いのだろうか、起こしてあげた方が、良いのだろうか。一瞬そんな事を思ったのだが、停車と共に、列車内に乗り合わせていた客人たちは波のように私をさらって列車を降りてしまった。

 私が列車の外に放り出されると、次は足軽やら湯女がゾロゾロと列車に乗り込んで行った。私はとうとう、老人に声を掛けてはやれなかったのだ。

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